ペルヒトルツドルフ城
(Burg Perchtoldsdorf)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: バーベンベルク家か
 交通  : リージンク駅からバスに乗り、
      「ペルヒトルツドルフ マルクトプラッツ」下車すぐ
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           オーストリア辺境伯バーベンベルク家によって1000年ごろには築かれていたともいわれるが、
          確証はない。史料上は、1138年にバーベンベルク家の家人ハインリヒ・ド・ペルヒトルデスドルフ
          の居城として登場する。その子孫のオットー1世はオーストリア公フリードリヒ2世(闘争公)と対立
          したため、攻撃を受けて城は城壁の一部を除いて破壊され、教会に改められた。
           続くオットー2世は1278年のマルヒフェルトの戦いでハプスブルク家のローマ王ルドルフ1世側に
          属して戦い、これに先立ってペルヒトルツドルフ城の再興を許可されていた。しかし、オットー3世
          は1284年に「自由意思」で城と所領を放棄し、ルドルフ1世の長子・アルブレヒト1世に移譲した。
          オーストリア公として強圧的に振る舞うアルブレヒト1世に対し、オットー3世が他のウィーン貴族と
          共に反乱を企てたためと推測されている。オットー3世は1286年ごろに死去して(獄死とも)ペルヒ
          トルツドルフ家は断絶し、家名と遺領は正式にハプスブルク家に吸収された。
           城もいったん廃されたとみられ、1308年にはペルヒトルツドルフが「市(マルクト)」として抵当に
          入れられている。しかし、1332年までに居住用として再建され、アルブレヒト1世の子・アルブレヒト
          2世の妻であるヨハンナ・フォン・プフィルトの居館となった。1395年にアルブレヒト3世が世を去る
          と、妻のベアトリクス・フォン・プフィルトがペルヒトルツドルフ城に隠遁した。これ以降、城は未亡人
          の住まう館としての利用がしばらく定着した。
           15世紀半ばに神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世と弟のオーストリア大公アルブレヒト6世が争うと、
          ペルヒトルツドルフ城は再び城砦として取り立てられ、今日に残る防衛塔が建造された。1485年、
          ハンガリー王マーチャーシュ1世がウィーンを攻略すると、これに前後してペルヒトルツドルフ城も
          制圧され、徹底的に破壊されたとされる。1493年にマクシミリアン1世が神聖ローマ皇帝となり、
          ハプスブルク家による支配が安定すると、ペルヒトルツドルフ城は戦略的価値を失い、1521年に
          完成した防御塔を除いて打ち捨てられた。
           1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲を受けて、ペルヒトルツドルフの住民は街を
          城壁で囲い、防御塔の窓を銃眼に改めた。1683年の第二次ウィーン包囲でも、数百人の犠牲者
          が出たといわれる。18世紀の末には市壁が撤去され、堀も埋められた。
           第二次世界大戦後の1960年代には、城内にイベント施設が建造され、2010年にリニューアル
          されて今日に至っている。


       <手記>
           ペルヒトルツドルフはウィーン市街の南西、ウィーンの森と呼ばれる丘陵地帯の縁に位置して
          います。城跡はマルクト広場より1段高い所にあるものの、要害と呼べるほどの高低差はなく、
          オーストリアでは珍しい平城形式となっています。
           城内には教区教会やゴシック様式の防御塔が建っているほか、北辺に城壁の一部が残存して
          いました。また、館跡は上述のとおりイベント施設に転用され、墓地となっていた中庭は駐車場に
          改められており、その一角にも城塔が残っていました。堀は埋められており、背後の丘に登ると、
          トップ画像にある写真撮影用の額縁があります。第二次ウィーン包囲以降は城砦に関心が払わ
          れてこなかったため、このほかには城丘の南に市壁の一部と堀跡の切通し道が見られる程度の
          ようです。
           防御塔は5月〜9月の日曜と祝日のみ、資料館および展望台として有料で公開されています。
          私はそうとは知らずに訪れたのですが、この日はたまたま復活祭から40日後のキリスト昇天祭
          で、奇跡的にドイツでは数少ない祝日に当たっていました。さらに運の良いことに、受付をされて
          いたスネイプ先生のような雰囲気の方がたいへん親切で、ペルヒトルツドルフ城はもとより周辺
          の城跡についてもとても博識でいらっしゃいました。とくに、この後に訪れたシャルフェネック城
          ついては、おそらくこの方に行き方を教わっていなければ、辿り着けなかったでしょう。この場を
          借りて御礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました!

           
 ペルヒトルツドルフ城の防御塔と教区教会。
防御塔内部の資料館。 
 防御塔展望台から北辺の城壁を見下ろす。
防御塔展望台からウィーン方面の眺望。 
 北辺の城壁。
教区教会と館跡を転用したイベント施設。 
 教会内部のようす。
イベント施設の入り口。 
 イベント施設駐車場一角の城塔。
市壁の一部。 
 その脇の堀跡か。


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