| シャルフェネック城 (Burg Scharfeneck) |
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| 別称 : ヴォルフスベルク城 | |
| 分類 : 山城(Höhenburg) | |
| 築城者: 不明 | |
| 交通 : バーデン駅から徒歩30分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 考古学の見地からは、1100年ごろに築かれ、13世紀には意図的に廃されていたとみられている。 わずか数百メートルの距離にあるラウエンシュタイン城やラウエネック城と同じ時期に、ハイリゲン クロイツへ抜けるヘレーネン谷の街道を押さえる目的で築城されたと考えられているが、史料上の 裏付けはない。また、ウィーン南東のマンナースドルフにも同名の城が存在するため、この期間の 文献にシャルフェネック城が登場したとしても、それがどちらを指すのかは留保が必要である。 1405年にフリードリヒ・フォン・シャルフェネックが城を所有していたとするのが、史料上の確実な 初出とされる。ただし、考古学的にはすでに廃城となっていたため、あくまで財産として城跡を保有 していたものと推測される。その後、経緯は不明だが、シャルフェネック城はラウエンシュタイン家の 手に帰した。 1476年、ウルリッヒ・カンパーなる人物がシャルフェネック城を入手し、カンパー・ツー・シャルフェ ネック家を称して貴族の一員となった。1517年には、婚姻により城はラウエンシュタイン家の所有に 復した。他方で、ラウエンシュタイン家はラウエンシュタイン城を失っている。 その後も城館として再び取り立てられることはなく、1595年時点で「荒城(ödes Schloss)」を表記 され、今日に至っている。 <手記> ラウエンシュタイン城とラウエネック城は今でもバーデンの町からちらほら見えますが、シャルフェ ネック城はそこからシュヴェヒャート川をさらに数百メートル遡った山中にあります。上述のとおり、 史料にもろくに見られず、麓の川沿いの遊歩道にはいわゆるベートーヴェンの散歩道として人の姿 も少なくありませんが、案内も標識もなく城跡があることすらまったく知られていない様子です。 私自身、バーデンへ来る前にペルヒトルツドルフ城の防御塔資料館で受付の博識な方に行き方 を教わっていなかったら、おそらく辿り着けなかったでしょう。というのも、森の中のカフェレストラン から庭角を曲がって藪道に入るのですが、いったん城跡と反対方向へ向かうため、事前の情報が なければこの時点で道を誤ったと引き返してしまったと思うのです。偶然の出会いによって訪れる ことができて、件の受付の方には本当に感謝です。 さらに、城跡への山道は途中で完全に埋もれ、藪を漕いで倒木を乗り越えなければなりません。 ここでも、その先に城跡があると分かっていなければ、断念してしまった可能性は高いでしょう。 こうして日本の山城と何ら変わらない労力の先に、まず鞍部の堀切が現れます。堀切は2本ある ように見えますが、ヨーロッパでは二重堀切というのは珍しいため、本当に遺構かどうかは留保が 必要かもしれません。 城内はほとんど自然地形に帰しており、部分的に建物基部の石塁が散見されます。と、城山の 南東側面に下りると、突如として一番の見どころである立派な石垣が現れ、ここまでの苦労が一気 に吹き飛びました。石垣の角には算木積みのような隅石もみられ、埋もれた廃墟ではありますが、 このサイトを訪問されるような百戦錬磨の城跡ファンの方でしたら畢竟満足されることでしょう。 シャルフェネック城は13世紀には廃されていたとされ、規模的にも他の2城よりはだいぶ小規模と いえます。おそらく、3城すべてにランニングコストをかけるよりも、2城を拡張して運用した方が効率 が良いと判断されたものと推察されます。 |
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| 麓を流れるシュヴェヒャート川。 | |
| 城山への入り口。 | |
| 登山途中その1。 | |
| その2。だいぶ藪ってきました笑 | |
| その3。そして倒木を乗り越えて…。 | |
| 背後鞍部の堀切に至ります。 | |
| 同上。ただしこちらは遺構か分かりません。 | |
| 城山に近い方の堀切。 | |
| 同上。 | |
| 城内の石塁。 | |
| 城内のようす。 | |
| 城内の建物基壇部か。 | |
| 南東下の高石垣。 | |
| 高石垣の角。 算木積みのように見えます。 |
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| 南辺の高石垣。 | |
| 北辺の石垣。 藪が酷くて接近は断念しました。 |
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