プファルツ城 (Burg Pfaltzgrafenstein) |
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別称 : プファルツグラーフェンシュタイン城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: ルートヴィヒ4世 | |
交通 : カウプ市街から連絡船を利用(30分おき) | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> 1326年、上バイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ4世は、ライン右岸のカウプの町と グーテンフェルス城でライン川を航行する船から徴税していたが、徴収力を高めるため、 カウプ眼前の中洲に五角形の塔の建築を開始し、翌年に完成した。ルートヴィヒ4世の跡 を継いだ甥のルドルフ2世は、1339年から1342年にかけて塔に外壁を増築し、このころ から「城」と呼ばれるようになった(以下「プファルツ城」)。 川の中州に築かれたプファルツ城は、流水に晒され続けた影響や、なかんずく春先に 融けて流れてくる氷の破片によるダメージが経年とともに顕著となった。この問題を解決 するため、1606年から翌年にかけてプファルツ選帝侯(以前のライン宮中伯)フリードリヒ 4世は城の上流側を南極観測船の舳先のように尖らせるよう改築した。 1714年、城はバロック調に改修され、今日の外容が整えられた。ナポレオン戦争に続く 解放戦争中の1814年、プロイセン陸軍元帥ゲープハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル は6万の兵とともに、このプファルツ城の前でライン川を渡河した。このライン渡河のようす はヴィルヘルム・カンプハウゼンの油彩画に描かれ、そこにはうっすらと雪化粧をまとった プファルツ城の姿も収まっている。 もともと戦闘や駐屯ではなく徴税用の城であったため、プファルツ城はその後も合戦を 経験することはなく、関所としてのみ機能していた。1866年の普墺戦争以後は、徴税も 行われなくなり、1960年代までライン川航行の船のための信号塔として利用された。 <手記> ガイドブックなどではおおむね「プファルツ城」となっていますが、プファルツというのは あくまで地方名なので、ちょっと名称としては不正確な気がします。正式名称の「Burg Pfaltzgrafenstein」をそのまま読むなら、「プファルツグラーフェンシュタイン城」となります。 意味は、「プファルツ伯の城」といった感じです。 さて、プファルツ城はライン川の中州に築かれた特異な城です。ライン渓谷の他の城は なべて山の上に築かれているので、当然ながらライン渓谷で最も低いところにある城だ そうです。上空から見ると、船の形をしていることで知られています。単なるデザインかと 思ったら、上記のとおり水害氷害対策というきちんとした理由のあるフォルムだということ です。 それにしても、川の中州の城というのは、臨時の戦闘用以外では、日本では考えられ ない立地です。日本でこのような城を築いた場合、まず洪水で跡形もなく押し流されて しまうでしょう。水量の比較的安定したライン川だからこそ可能な芸当であると思います。 ちなみに、上の写真の左手修復中なのがプファルツ城、右手山上の古城がグーテン フェルス城です。 |
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シェーンブルク城からプファルツ城方面を望む。 |