ラッツェブルク
( Ratzeburg
 別称  : なし
 分類  : 都城
 築城者: ラティボル
 交通  : リューベック中央駅から快速鉄道REで20分
       ラッツェブルク駅からバスで約10分
 地図  :(Google マップ

       <沿革>
           1062年にヴォルムスで発行された文書に、ザクセン公オルドゥルフに「ラツェスブルク
          (Racesburg)」を譲渡する旨の記述がみられるのが初出とされる。ラツェとは、現在の
          ドイツ北東部に割拠したスラブ勢力アドボリト(ないしオドボリト)の君主の1人ラティボル
          (Ratibor)にちなむとされる。ラティボルはラッツェブルクの島に城砦を築き、実際に居住
          していたといわれる。
           1154年、ザクセン公ハインリヒ3世(獅子公)によってラッツェブルク市とラッツェブルク
          司教区が設立された。同年〜1162年の間に、ヴァグリーン伯ハインリヒ・フォン・バーデ
          ヴィーデがラッツェブルク伯に封じられ、島の西側にあったラティボルの城砦跡を石造に
          改めて居館とした。同時期に大聖堂も現在と同じ位置に建立された。
           ハインリヒの曽孫ベルンハルト3世が1199年に夭折すると、バーデヴィーデ家の男系
          は絶え、未亡人であったベルンハルト3世の母アーデルハイトの再婚相手アドルフ1世・
          フォン・ダッセルが跡を継いだ。しかし、1200年のヴァショウの戦いでアドルフ1世らは
          デンマーク軍に敗れ、ラッツェブルクの支配権を奪われた。デンマーク王ヴァルデマー
          2世は、1202年に自身の甥に当たるアルブレヒト2世・フォン・オルラミュンデをラッツェ
          ブルク伯に就けた。
           アルブレヒト2世は1225年のメルンの戦いでシュヴェリーン伯に捕えられ、1227年の
          ボルンヘーフェトの戦いでヴァルデマー2世もシャウエンブルク伯アドルフ4世に敗れた。
          これにより、ラッツェブルクの支配権はザクセン公アルブレヒト1世の手に移り、公国の
          直轄とされた。1296年にザクセン公国が分割相続されると、ラッツェブルクはザクセン
          =ラウエンブルク公国に組み入れられた。
           ラッツェブルクの宮殿はラウエンブルク宮と並ぶザクセン=ラウエンブルク公の公宮
          となり、改築が加えられていった。1616年にはラウエンブルク宮が火災で大きく損傷
          し、当時の当主フランツ2世は焼け残った建物に住み続けて1619年に亡くなったが、
          その子アウグストは居城をラッツェブルクに移した。
           1648年にウェストファリア条約が結ばれると、メクレンブルク公を君主とするラッツェ
          ブルク侯領が成立した。1701年には、ラッツェブルクはメクレンブルク公の家督争いを
          経てメクレンブルク=シュトレーリッツ公領に組み込まれた。
           これに先立つ1689年、リューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムは跡継ぎを巡って
          混乱していたザクセン=ラウエンブルク公国に軍勢を進め武力で制圧した。1692年、
          ラッツェブルクはゲオルク・ヴィルヘルムにより近隣諸国への備えとして要塞化された。
          これに対し、ホルシュタイン公国を領するデンマーク国王クリスチャン5世は不快感を
          露わにし軍を派遣した。1693年、ハンブルクの和約によりクリスチャン5世がゲオルク・
          ヴィルヘルムのザクセン=ラウエンブルク領有を認める代わりに、ラッツェブルク要塞
          は破壊されることになった。この破壊は徹底的に行われ、その後1730年までに市街
          そのものが一から再建された。バロック様式のこの計画都市は、同様の構想で建設
          されたマンハイムやカールスルーエなどの嚆矢ともいわれる。ただし、宮殿は復興
          されることなく今日に至っている。
           ナポレオン戦争後の1816年にラッツェブルクの要塞部分は撤去され、都城としての
          役割は完全に終えることとなった。


       <手記>
           ラッツェブルクはハンザの女王ことリューベックの南方20kmほどにある、湖の上に
          浮かぶ小島の街です。リューベックからは鉄道なら20分ほどで着きますが、余裕の
          ある人は湖までリューベックからヴァーケニッツ川を遊覧船で遡る優雅なルートもあり
          ます。
           旧市街と大聖堂が見どころの小さな観光の街ですが、城塞の痕跡はあまり残って
          いません。1730年の古絵図によれば、現在観光案内所が立っているあたりに3つの
          稜堡が並んでいたということで、建物裏手に申し訳程度にレプリカの大砲が置かれ
          ています。
           また、そこから水路を隔てた西側のシュロスヴィーゼ(宮殿の草原の意)は、かつて
          ラティボル以来の居館があったとされています。今はビーチや波止場のある緑の公園
          となっていて、通り名以外に城館跡を思わせるものはありません。
           ちなみにこの日は、珍しく朝からしっかり雨が降っていて、写真が思うように撮れま
          せんでした。街自体はコンパクトで観光客も多すぎず、リューベックの賑やかさを少し
          離れてのんびりするのにはうってつけです。
  
 稜堡跡とレプリカの大砲。
稜堡跡(右の草地)と奥に大聖堂。 
 旧市街の街並み。
大聖堂。 


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