ラウエンシュタイン城 ( Burgruine Rauhenstein ) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: トゥルゼン家か | |
交通 : バーデン駅よりバス(ルートR) 「ラウエンシュタイン」バス停下車徒歩15分 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 向かい合って立つラウエネック城と同じ12世紀ごろに築かれたと考えられているが、詳細な 築城の経緯は不明である。1203年には、オットー・トゥルゼ・フォン・ラウエンシュタインの名が 見られ、この時までにはラウエンシュタイン城も築かれていたものとみられる。オットーの出自 については定かでないが、ラウエネック城主のトゥルゼン家の一族と推測される。 13世紀中ごろには、婚姻によってピリヒスドルフ家の所有になったものと推測されている。 1386年にはハンス3世・フォン・プーフハイムが城を受け継いだが、1408年にはヨハン・ラウン 率いる盗賊団に奪われ、城代クーノ・トラーは殺害された。1466年、ヴィルヘルム2世・フォン・ プーフハイムは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に対して反乱を起こした。フリードリヒ3世は 討伐軍を差し向け、ラウエンシュタイン城は包囲された末に開城した。ヴィルヘルム2世は帝国 アハト刑に処され、城はオーストリア大公国の所有財となった。 1477年には、ハンガリー王マーチャーシュ1世麾下の部隊によりラウエネック城とともに破壊 されたが、後にラウエンシュタイン城のみ再建された。マーチャーシュ1世が1490年に死去した ことでウィーンに帰還することができたフリードリヒ3世は、借金の抵当としてラウエンシュタイン 城の所有権を傭兵隊長ハインリヒ・プリューシェンク・フォン・シュテッテンベルクに譲渡した。 1529年の第一次ウィーン包囲で再びラウエンシュタイン城はオスマン軍によって破壊され、 1531年には軍務局長リーエンハルト・キュッテンフェルダーが抵当権者として城を取得した。 1583年、前方オーストリア大公マクシミリアン3世の会計係であったゲオルク・ザウラー・フォン・ ザウアーブルクがラウエンシュタインとラウエネックの両城を購入した。その後も城の所有権は 転々とし、城内は徐々に荒廃していった。 1683年の第二次ウィーン包囲に際して、城は再度オスマン軍に攻撃され、大きく損傷した。 18世紀に入るころには、もはや住むことも困難な廃墟となっていた。 スペイン継承戦争で活躍し、1711年に騎士に取り立てられた当時の城主フランツ・アントン・ フォン・クヴァリエントは、ラウエンシュタイン城の修復を図った。しかし、1720年にクヴァリエント 家は城を売却し、その後ドブルホーフ男爵家の手に渡った。復興工事は、断続的に19世紀末 ごろまで行われ、再び主塔に人が登れるまでになった。 <手記> ラウエンシュタイン城はウィーン郊外の保養地バーデンの西方にあります。シュヴェヒャート川 の開口部に臨む峰の中腹の小ピークに築かれています。川を西へ遡るとウィーンの森を抜けて ザンクト・ペルテルンに通じるため、向かい合うラウエネック城と合わせて、街道筋の城として 重要だったようです。 バーデン駅から山麓までバスがあるようですが、おそらく本数は少ないでしょう。バーデンには ベートーヴェンの散歩道と呼ばれる散策路があちこちに通じているので、少し時間はかかります が、歩いても来られないことはありません。私は市街中心の観光案内所で自転車を借りました。 先にラウエネック城に登ると、主塔の上から最高のアングルでラウエンシュタイン城の全景を 拝むことができます。城の周囲だけ不自然なくらいに岩が切り立っていて、メルヘン話の古城の ようです。あるいは築城や改修に際して、岩肌も人為的に険しく削られたのかもしれません。 ラウエネック城から見下ろす位置にあることからも分かるとおり、比高はたいしてありません。 登山口から5分ほども登れば城門前に着きます。ですが、倒壊のおそれがあるとかで、門には フェンスが張られそれ以上は中に入れませんでした。外周を巡れるような道もほかになく、仕方 なく外壁を眺めて後にしました。 私が参考にした資料では、上述のとおり19世紀の時点である程度修復されていたそうですが、 その後どのような経緯でまた廃墟になってしまったのかは分からずじまいでした。ちなみに、夜 にはライトアップされるそうです。 |
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登山口。 | |
城門のようす。 | |
城門からフェンス越しに中をうかがう。 | |
外周の城壁。 |