ロイヤル・ミリタリー運河 (Royal Military Canal) 付.マーテロー塔 |
|
別称 : なし | |
分類 : 濠 | |
築城者: イギリス政府 | |
交通 : ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道ハイス駅下車ほか | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1804年、ナポレオン戦争に伴うフランス軍の侵攻に備えるため、王国工兵隊の ジョン・ブラウン中佐はイングランド南東岸に長大な運河を建設することを発案した。 運河によってフランスの進軍を食い止めると同時に、ロムニー・マーシュに上陸の 足場を与えないことが主な目的とされた。この案は内閣によって採択され、民間の 技術者ジョン・レニーが顧問責任者に任じられ、首相ウィリアム・ピット(小ピット)が 地権者の説得に当たった。 工事は同年10月30日にハイスとフォークストーンの間のシーブルックからスタート したが、翌年5月の段階で6マイルほどしか進まず、レニーは解任された。新しい 指揮官の下でナヴィー(Navvy)と呼ばれる渡り鳥労働者が約700〜1500人ほど 雇われ、工期を短縮するために手作業での過酷な掘削工事に従事させられた。 1806年8月にはライ北東のロザー川との合流点まで達したが、完成を急ぐ代償と して、運河の幅は計画の半分に、総長も大きく削減された。ライ周辺ではロザー川 とブリード川をもって運河の代用とし、ウィンチェルシーからクリフエンドまでの区間 が1808年9月に完工した。全体の一応の完成を見るまでには、さらに翌1809年4月 まで要した。 しかし、1805年のトラファルガーの海戦での勝利によって、当時すでにフランス軍 の英上陸の脅威は去っており、運河は完成前から無用な国家プロジェクトとして 批判の的となっていた。 当初の目的を早々に失った「ミリタリー」運河は、本来の「運河」としての役割で 運用するため、1810年に一般に開放された。主にライとハイスの間の物流を担う ことが期待されたが、貨物船が通るには細いうえに海路を行くのとあまり距離が 変わらなかったため、利用状況は芳しくなかった。 1851年に鉄道が開通するといよいよ運河の利用価値はなくなり、ハイスから東の 区間はハイス市に売却され、それ以外の区間は年1シリングでロムニー・マーシュ の領主に999年間貸与されることとなった。運河で通行料が最後に徴収されたのは、 1909年12月15日のこととされる。 <手記> 城塞に含めてよいものか迷いましたが、当初から防衛を目的として造られた「濠」 であることから、城砦施設として取り上げることにしました。とはいっても、外観上は やはりただの運河なので、その防御能力の如何を考えるのも、空しい作業のように 思います^^; 運河は大部分が残っていますが、観光スポットとして利用されているのはハイス 市街を貫流している区間です。ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道のハイス駅で 下車すればすぐ目の前に流れていますが、この鉄道は大人の胸あたりまでの高さ しかないミニチュア列車で、他の路線とも交わっていない純粋な観光鉄道です。 一般の公共交通機関を使って訪れるなら、ライの2駅先のハム・ストリート駅で下車 するのが便利でしょう。 私はニューロムニーというところの農家の納屋を改装したコテージに友人と宿泊 していて、ハイス市街観光のほかにレンタルサイクルで運河周辺の牧農地帯を サイクリングしました。どこまで行ってものどかな運河で、これでナポレオン軍を 食い止めようというのですから、イギリスの三大バカ査定とでもいうような暴挙で あったことは論を待たないでしょう。運河としてもあまり役に立たない無用の長物で ありながら、工事は過酷だったようで、ハイスには工事に携わった労働者の像が あります。 運河と並行して海岸線沿いに多数設けられたのが、円形のマーテロー塔です。 規模はさまざまで、今でも砂浜に似合わない武骨さで、ちらほらと残っています。 こちらの方は小さな要塞と考えればそれなりに有用で、今もダウンズの海岸線に ちょいちょい建っています。 |
|
ハイス市内の運河。 | |
ハイスにある運河工事労働者の像。 | |
ハム・ストリートの東、ニューチャーチロードから見た運河。 | |
マーテロー塔を遠くに望む。 |