領ヶ谷城(りょうがや)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 佐々木盛綱
 遺構  : なし
 交通  : JR京浜東北線南浦和駅徒歩20分


       <沿革>
           源頼朝の挙兵に応じた佐々木盛綱が、兵馬を呼び集めるために築いたと伝わる。とすれば、築城年
          は治承四年(1180)と推定される。
           室町時代初期、佐々木持清が領ヶ谷城にあったといわれる。持清は、至徳二年(1385)に調神社の
          社殿を再建した人物としてもその名がみられる。京極持清と同一人物とも考えられるが、こちらは応永
          十四年(1407)の生まれである。そもそも、持清の名は将軍足利義持の偏諱を受けたものと思われる
          が、至徳二年には義持すら生まれておらず、調神社の社伝には誤りがあるものと推測される。
           永禄二年(1559)成立の『小田原衆所領役帳』によれば、太田窪周辺は千葉氏領であったと記され
          ている。領ヶ谷城の北西1qのところにある太田窪堀の内には、千葉邦胤の家臣木内右衛門が拠った
          とする伝承が残る。領ヶ谷城がこのときまで存続していたか否かは詳らかでない。

       <手記>
           領ヶ谷城は、藤右衛門川に臨む舌状の河岸に築かれた城です。城跡の大部分は、現在うなぎ料理
          の店になっています。浦和周辺は、江戸時代から鰻の名所として知られていたそうですが、この店は
          その浦和においてもかなり有名な老舗なのだそうです。南浦和駅から東に向かえば、ところどころこの
          店の看板が出ており、そこには必ず領ヶ谷城址と添え書きがあるので、これに従えば城跡までたどり
          つくことができます。とはいえ、現地には何ひとつ遺構もなく、城跡と銘打ってもそれほどの宣伝効果は
          ないように思うのですが…。
           領ヶ谷城は、三方を崖に挟まれた小さな舌状地形となっており、伝承のとおりとすれば地続きの根本
          を堀で切っただけの簡単な陣城にはじまるものであったと推測されます。その後いつごろまで使用され
          たのかは不明ですが、仮に後北条氏時代まで使われていたとしても、地形上の制約から鑑みてさほど
          の規模はもっていなかったものと思われます。
           ちなみに、城跡のうなぎ屋さんは高過ぎるというほどではないですが安くもなく、一般的な鰻のお値段
          でした。味は上々で、ふわふわのうなぎを楽しめます。宴会席は懸造りとなっていて、女将さんのお話に
          よれば、かつては眼下に谷戸田が広がり、白鷺などが舞い遊ぶ風雅な景色が楽しめたそうです。現在
          では開発も進み、見渡す限り家ばかりとなってしまいました。

           
 領ヶ谷城址に建つうなぎ料理店。
崖下から領ヶ谷城址を望む。 


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