霊山城(りょうぜん)
 別称  : 国司城
 分類  : 山城
 築城者: 北畠顕家
 遺構  : 土塁、削平地、池跡
 交通  : 東北中央自動車道霊山飯舘ICまたは
      相馬玉野ICから車で10分


       <沿革>
           正慶二/元弘三年(1333)、後醍醐天皇の側近である北畠顕家は、義良親王を奉じて奥州へ
          下向し、多賀城へ入って陸奥将軍府を開いた。しかし、建武二年(1335)に足利尊氏が挙兵し、
          顕家が奥州勢を率いて上洛し尊氏らを九州へ追い落としたものの、多賀城周辺は足利方の武家
          に押さえられてしまった。そこで顕家は、延元二/建武四年(1337)一月八日に親王と共に霊山
          山頂の天台宗霊山寺へ国府および国司館を遷した。
           同年八月十一日、顕家と親王は霊山城を発って京へ向けて進軍し、杉本城の戦いや青野原の
          戦いなどで北朝勢を打倒した。しかし、長征で疲弊した奥州軍は、翌延元三/暦応元年(1338)
          の石津の戦いで足利家執事高師直・師泰兄弟らに敗れ、顕家は21歳の若さで討ち死にした。
           その後も霊山城は、顕家の弟・顕信らによって維持されたとみられる。『日本城郭大系』では、
          北朝方によって一時奪われていた可能性が指摘されているが、確証はない。貞和三/正平二年
          (1347)に至って、北朝の奥州管領・吉良貞家に攻め落とされ、国司館や霊山寺の伽藍は灰燼に
          帰したとされる。
           以後、霊山城の名は史料に登場せず、霊山寺は霊山の北西山麓に再興された。


       <手記>
           奥州南朝方の本拠地であり、南北朝時代を代表する山岳城郭の1つともいえる霊山城ですが、
          今では多くのハイカーが訪れる手ごろなハイキングスポットとして親しまれています。そのため、
          登山口には駐車場やトイレも完備され、峻険な岩山の外観に反してとても歩きやすい登山道が
          整えられていました。
           頂部はテーブルマウンテンとまではいいませんが広く緩やかで、広範囲に修験道の修行場や
          堂宇が散在していたものとみられます。狭義に霊山城とされるのは、そのうち「西の物見」と呼ば
          れる一角で、主郭に相当するとみられる土塁に囲まれた区画には説明板が立てられ、登山客が
          休憩や昼食をとるのにちょうどよいスペースとなっているようでした。
           主郭の1段下には国司館跡と伝わる削平地があり、その下には階段状の平場が続き、堂宇跡
          とされています。さらにその下方には、国司沢の水源地でもある松賀池があり、土塁で囲まれた
          人工の貯水池であることがうかがえます。霊山にはこうした池が多く点在しているそうで、周囲は
          南朝方の将兵の駐屯地でもあったのでしょう。
           そのネームバリューに比べて存続期間は長いとはいえない霊山城ですが、南北朝時代の城塞
          としては、十分に旧状を感じ取れるように思いました。

           
 国見町内から霊山を望む。
登山口から見上げる。 
 宝寿台。
宝寿台からの眺望。 
 松賀池跡。
階段状の削平地群。 
堂宇跡か。 
 削平地群の1つ。
切岸跡か。 
 国司館跡。
主郭の説明板。 
 主郭と土塁。
主郭の土塁。 
 西の物見岩からの眺望。


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