佐渡奉行所(さど)
 別称  : 佐渡代官所
 分類  : 陣屋
 築城者: 江戸幕府
 遺構  : 削平地、堀跡
 交通  : 両津市街または佐和田市街からバスに
      乗り、「相川」下車徒歩10分


       <沿革>
           江戸幕府の佐渡奉行職は、慶長六年(1601)に鶴子銀山の山師が相川の金鉱を発見
          したことを受けて設置された佐渡代官を前身とする。代官所は当初鶴子に置かれたが、
          同八年(1603)に大久保長安が代官に任命されると、相川の現在の地に移転した。
           佐渡奉行と呼ばれるようになったのは、慶長十八年(1613)の大久保長安事件で相川
          金山が一時衰退した後、元和四年(1618)に幕府によるてこ入れとして鎮目惟明・竹村
          嘉理の2人が着任してからとみられている。したがって、佐渡奉行所という呼称も、この
          ときに生じたと考えられる。とくに惟明は、金山の活性化だけでなく佐渡領内の生活の
          安定化に努め、その治世下で相川の人口は5万人を数え、最盛期を迎えたとされる。
           また、鎮目・竹村以降、佐渡奉行は慣例的に2人制となり、後に制度化した。基本的に
          1人が佐渡在番でもう1人が江戸詰という体制をとったが、佐渡奉行所には2つの役宅が
          別個に設けられていた。
           奉行所は江戸時代を通じて5回の火災に見舞われ、その度ごとに再建された。最後の
          佐渡奉行鈴木重嶺が慶応四年(1868)に役目を去ると、奉行職および奉行所も廃止と
          なった。


       <手記>
           江戸時代の金山の様子を物語の史跡の1つとして、奉行所の建物の一部が安政六年
          (1859)再建時の図面を基に再建されています。面白いのは、前述の通り佐渡奉行は
          2人制だったため、役宅が2つあることです。お白洲もそれぞれにあるなど興味深いの
          ですが、実際に赴任しているのは1人だったことや、2の役宅には大きさや正面・裏手の
          点で明確な優劣があり、あくまで建前としてのものだったように感じられます。
           もう1つ面白いのは、一段下がったところに鉱石から金銀を取り出す「勝場(せりば)」
          と呼ばれる施設があり、こちらも再現されていることです。行政府のすぐ隣に作業場が
          あるというのはなかなか異色の光景ではないでしょうか。
           また、奉行所で防備の用を意識したものではないと思いますが、前面には堀が、背面
          には土塁が設けられています。また表門向かいには、佐渡小判の製造所とされる後藤
          役所の石垣があります。きれいに復元・整備された奉行所では、どこまでが古い遺構で
          どこが新しいのか見分けがつかない部分もあり、後藤役所の石垣は確実に旧態を伝え
          ている貴重な遺物といえるでしょう。

           
 佐渡奉行所前面。
堀跡。 
 背部のようすと土塁。
裏御門。 
 勝場。
勝場前から奉行所を望む。 
 後藤役所の石垣。


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