佐土原城(さどわら)
 別称  : 田島城、鶴松城
 分類  : 山城
 築城者: 田島氏か
 遺構  : 天守台、曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR日豊本線宮崎神宮駅よりバス
      「佐土原小学校前」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           伊東氏庶流田島休祐(休助)によって、南北朝時代に築かれたと伝わる。田島氏は曽我兄弟
          の仇討ちで知られる工藤祐経の子祐時の四男祐明にはじまり、休祐は祐明から数えて8代目
          とされる。『日本城郭大系』によれば、『旧事集書』に伊東義門の家臣角隈石宗が縄張りしたと
          あるとされる。さらに、休祐には嗣子がなかったため、義門の三男を養子とする約束を交わした
          ものの、履行前に休祐が死んだので、都於郡城の義門が佐土原城を急襲して奪ったとされる。
          しかし、都於郡城主に伊東義門なる人物はおらず、また角隈石宗といえば大友氏の軍師として
          知られる16世紀中期の武将であり、同一人物とは考えにくい。今日では、伊東宗家による田島
          氏の乗っ取りは事実であるが、義門に比定される人物は伊東祐立で、その子祐賀が佐土原城
          に入り、佐土原氏を称したと考えられている。
           祐立の跡は、その子ないし孫とされる祐堯が継いだ。文明十二年(1480)、祐堯は嫡男祐国
          を佐土原城に封じた。祐国は佐土原氏を継承したとされるが、その後宗家の家督を継いでいる
          ため、佐土原の直轄化を図ったものと思われる。同十七年(1485)に祐堯が清武城で病没する
          と、祐国が家督を継いだため、佐土原には城代が派遣されたものと推測されるが、詳細は不明
          である。
           祐国の死後、伊東家中では内紛が続いた。天文五年(1536)に祐国の孫祐清(義祐)が家督
          を継いだが、都於郡城は兵火にかかって廃れていたため、義祐は佐土原城に入った。しかし、
          翌六年(1537)には佐土原城でも火の手が上がり、義祐は宮崎城へ移った。その後、義祐は
          佐土原へ戻っているが、正確な年代は明らかでない。
           義祐は伊東氏の最大版図を築き上げ、佐土原城もその居城として改修を重ねられ、栄耀栄華
          を誇った。しかし、元亀三年(1572)の木崎原の戦いでの敗北以降は、島津氏に対し劣勢を強い
          られるようになった。天正五年(1577)、義祐は島津氏の攻勢に耐えきれなくなり、一族郎党を
          率いて豊後へ脱出した。佐土原城を接収した島津義久は、弟の家久を城主とした。
           天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州平定に際し、家久は兄義久に先だって豊臣秀長と単独
          講和を結んだ。しかし、その矢先に、家久は佐土原城で急死した。病死とも毒殺ともいわれる。
          後者の場合、その首謀者に擬されているのは家久の才覚を恐れた秀長であるが、他方で自分
          に諮ることなく単独で講和したことに憤った義久によるものとする説もある。佐土原城は、家久
          の子豊久が継承した。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍に属して本戦に参加した島津軍は、敗色が明らか
          になると捨て身の敵中突破(捨て奸)を敢行したが、豊久は叔父義弘を守って討ち死にした。
          戦後、佐土原領は徳川家に収公され、庄田(荘田)三太夫が城代として派遣された。
           慶長八年(1603)、島津分家相州家の島津以久が佐土原城3万石に封じられた。佐土原城は
          幕府にも城として認知されていたが、寛永十四年(1637)には山上の城郭は破却され、山麓に
          陣屋造りの藩庁が設けられた。以後、佐土原藩は薩摩藩の支藩として続いた。
           明治二年(1869)、戊辰戦争における功績により3万石を加増された佐土原藩主島津忠寛は、
          新たに広瀬城を築城し、翌三年(1870)に移った。翌四年(1871)の廃藩置県により、広瀬城は
          未完成のまま廃城となったが、佐土原城はそれに1年先立って広瀬移転の際に破却されたと
          される。


       <手記>
           佐土原城は、一ツ瀬川と三財川の氾濫原に臨む丘陵地帯の一角にあります。城と城下町は
          JRの佐土原駅からはかなり遠く、バスで訪れる際にも、最寄駅は佐土原ではなく宮崎神宮駅
          となるので、注意が必要です。
           佐土原藩時代の佐土原城二の丸御殿の一部が復元・公開されています。入館料は無料にも
          かかわらず、管理人さんが親切にして下さって好感のもてる施設なのですが、いかんせん交通
          の便が悪い上に規模も微妙なため、一般の方が「お城!」と思って訪れると、少々がっかりして
          しまうかもしれません。駐車場は完備されています。
           古城址ファンとしては、むしろ見どころは御殿の脇から登る山城部にあります。管理員さんに
          頼むと、旧佐土原町教育委員会作成の専門的な縄張り図をいただけます。以下、城内の曲輪
          の表記はこの縄張り図にしたがいます。
           先に全体の印象としては、中世から脱皮できていない城という感じを抱きました。近年天守台
          が発見されたことから、周辺ではかなり進んだ方の城だったのでしょうが、それでも全ての虎口
          が喰い違いか切通しにとどまっており、また大手道は尾根筋の堀底道だったりと、中世的要素
          が多く見受けられます。
           大手道から登って最初に行きつく主要な曲輪は、「南の城」です。この曲輪は矩形に成形され
          ており、本丸ですら原地形に準じている点を鑑みれば、城内でもっとも手の加えられている曲輪
          といえるでしょう。南の城のさらに南には、城山南端の松尾丸がありますが、道が崩落している
          とかで通行止めでした。
           本丸は掘り込み状の空堀によって南北2段に分かれており、「北部本丸」に天守台があります。
          天守台の広さから、もし天守が実際に載っていたとすれば、2層か3層の櫓であったと推定され
          ています。
           本丸から先は下山ルートとなりますが、2つの本丸の間の空堀から下るルートと、天守台の先
          から下りるルートの2種類があります。すると、細い尾根筋のピークに四阿のある本丸東方曲輪
          -1と、さらにその先端部に位置する本丸東方曲輪-2があります。この2つの曲輪の間に虎口が
          あり、そこから谷筋に下っていくと、井戸跡を右手に麓へ下りてきます。天守台の先から下りる
          ルートだと、城の搦手にあたる弁天山稜線との間の切通しに出ます。
           この、二の丸御殿を囲う一翼を担う弁天山稜線にも、出丸が設けられていて然るべきと思うの
          ですが、縄張り図を見ると、山頂の佐土原神社境内のあたりが削平されているほかは、城砦化
          されたようすはみられないようです。
           御殿が復元されたということでいくらかは注目されるようになった佐土原城ですが、島津家は
          もとより、伊東氏の最盛期を偲ばせるようなものも今一つ感じられなかったのが残念でした。

           
 近世佐土原城内堀跡標柱越しに復元二の丸御殿を望む。
復元二の丸御殿玄関口のようす。 
 大手道。
切通し虎口。 
 南の城下の喰い違い虎口。
南の城のようす。 
 南の城の土塁。
本丸の喰い違い虎口。 
 本丸のようす。
天守台跡。 
 本丸を2つに分ける空堀。
本丸東方曲輪-1のようす 
 本丸東方曲輪-1と-2の間の虎口。
井戸跡。 
 搦手の切通し。


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