平塚城(ひらつか)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 大森憲頼か
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線平塚駅よりバス
       「大久保公園」バス停下車


       <沿革>
           『鎌倉大草子』等によれば、永享十二年(1440)の結城合戦に際し、大森伊豆守憲頼が
          平塚に陣を布いたとされる。
           『鎌倉九代記』等には、長尾景春の乱さなかの文明十年(1478)五月五日、太田道灌が
          平塚城に籠る憲頼を攻め、城はその日のうちに落ち、憲頼は箱根へ逃れたとある。ただし
          同記等には、大森氏の相模平塚城と豊島氏の武蔵平塚城を混同している部分がある。
          また、道灌が自身の功績を訴えた『太田道灌状』には、相模平塚城については触れられて
          いない。

       <手記>
           平塚城は、西に花水川が流れる平坦地にあります。現状ではとりたてて要害性は感じ
          られませんが、往時は花水川がもっと城に近い所を流れていたのではないかと推測され
          ます。
           現在、城跡一帯は市街地に飲み込まれていて、遺構などは一切みられません。『平塚
          市図録』に、土地の古老の記憶に基づく復元図があるとのことで、そこから辛うじて城が
          あったことを確認するよりほかありません。
           この図録にしたがった縄張図が『日本城郭大系』に掲載されていて、上の地図はそれを
          なぞったものです。これによると、平塚城は東西に長い方形の城で、かなり規模の大きい
          ものだったことになります。
           ただ、城館があったことは間違いないとして、これが本当に史書にある平塚城であったか
          については、確証はありません。まして大森憲頼の城であったのかどうかは、一次史料に
          登場しないためさらに曖昧といえます。『大系』では、戦記の記述が正しいとすれば、憲頼
          は永享の乱以来38年間平塚に居住していたことになるとしています。しかし、結城合戦の
          際は陣を布いたに過ぎず、それをそのまま城に取り立てたのかは明らかではありません。
          また文明十年の戦いについても、平塚城に憲頼が籠っていたというだけで、憲頼の居城で
          あったかは定かでありません。たとえそうだったとしても、いつごろから居住していたのかと
          いう点が新たに浮上します。
           このように、平塚城は遺構もなく、その歴史も謎に包まれたままとなっています。

           
 平塚城址北東隅付近から城の東辺を望む。
南東隅付近から南辺を望む。 
中央奥の四角い建物のあたりが、東西方向の中心になります。 


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