平塚城(ひらつか)
 別称  : 豊島城
 分類  : 平山城
 築城者: 豊島近義か
 遺構  : 土塁か
 交通  : JR京浜東北線上中里駅または
       地下鉄南北線西ヶ原駅徒歩2分


       <沿革>
           平安時代末ごろ、豊島近義によって築かれたと伝わる。『泰盈本豊島家系図』によれば、近義は豊島
          清光の大叔父とされるが、詳細は不明である。寛治元年(1087)に終結した後三年の役がらの帰路、
          源義家・義光・義綱の三兄弟がこの城に立ち寄り、鎧一領を下賜した。感激した近義は、この鎧を城内
          に埋め、平らな塚を築いて城の鎮守とした。この鎧塚が、平塚の地名の起源といわれている。
           『日本城郭大系』では、清光の子朝経のころには、平塚城が豊島氏宗家の居城となっていたとされる。
          ただし、清光から戦国時代の泰経までの系譜にはかなりの混乱がみられ、朝経についてもその存在が
          疑問視されている。鎌倉時代末期に、豊島氏の拠点が石神井城へ移ると、平塚城は支城となった。
           文明八年(1476)に長尾景春の乱が勃発すると、豊島泰経・泰明兄弟は景春方に与同した。泰経は
          石神井城、泰明は平塚城にそれぞれ拠り、両上杉氏と対峙した。翌九年(1477)四月十三日、扇谷
          上杉氏家宰太田道灌は江戸城から出撃し、平塚城を攻めて城下に火を放った。これを知った泰経は、
          石神井城・練馬城から出兵し、翌十四日に江古田・沼袋付近で道灌軍と合戦に及んだ(江古田・沼袋
          の戦い)。この合戦で豊島勢は惨敗し、泰明は討ち死にした。このとき平塚城が落城したかは詳らか
          でない。
           泰経は石神井城に籠もったが、同月二十八日に落城した。その夜に城を落ち延びた泰経は、翌十年
          (1478)一月に平塚城で再挙した。しかし、道灌の攻撃によって同月二十五日に落城し、泰経は再び
          逃亡した。この後も泰経は小机城で抵抗を続けるが、平塚城に返り咲くことはなく、城はそのまま廃城
          となった。


       <手記>
           平塚城の位置は、正確には分かっていません。ただし先の鎧塚の伝説から、義家ら三兄弟を祀った
          平塚神社周辺が城跡とする見方が、ほぼ定説化しています。江戸時代に作られた『平塚明神并別当
          城官寺縁起絵巻』によれば、平塚城は平安時代の豊島郡衙があったところに築かれたとされています。
          豊島郡衙は、発掘調査により平塚神社の南東にあったことが判明していますが、神社や郡衙周辺から
          は城に関する遺構は今のところ検出されていません。
           平塚神社は、古代東京湾および隅田川(かつての入間川)の浸食岸上にあり、西側は地続きですが、
          東側は急崖となっています。平塚神社本殿背後に土手状の土盛りがあり、土塁跡ともいわれています。
           ただし明確な遺構はないため、立地や伝説から往時を推察するよりほかにありません。また、上中里
          駅から平塚神社へ向かう途中の蝉坂は、明治時代に編纂された『東京府志料』によれば「攻坂」の転訛
          であるとされ、平塚城攻防戦の由来を匂わせています。
           ちなみに、私は小学生の頃に一度母親とこの城を訪ねたことがあり、神社の入り口の団子屋で一休み
          した記憶があります。私の記憶に残る団子屋はかなり年代物な感じだったのですが、新装したのかやけ
          にきれいになっていました。この団子屋は、某テレビサスペンスドラマシリーズの固定ロケ地ともなって
          います。


           
 平塚城址比定地の平塚神社。
上中里駅前から蝉坂と平塚神社(右奥)を望む。 
 神社本殿背後の土塁状地形。


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