佐伯城(さいき)
 別称  : 鶴屋城、鶴ヶ城、鶴城、鶴谷城
 分類  : 山城
 築城者: 毛利高政
 遺構  : 門、石垣
 交通  : JR日豊本線佐伯駅よりバス
       「大手前」バス停下車


       <沿革>
           慶長七年(1602)、佐伯藩主毛利高政によって築城が開始された。高政は尾張国の出身で、
          はじめ森姓を称していたが、天正十年(1582)の本能寺の変に際し、大返しを図った羽柴秀吉に
          よって毛利家に人質に送られ、そこで毛利輝元の歓心を買って毛利姓を与えられた。慶長五年
          (1600)の関ヶ原の戦いのとき、高政は豊後日田2万石を領しており、西軍に属して田辺城攻め
          に参加したものの、後に東軍に寝返った。戦後、高政は佐伯2万石へ移封となり、その頃の佐伯
          の中心であった栂牟礼城に入った。この移封は、表高は同じだが、実高は預けられていた太閤
          蔵入地も併せて6〜8万石といわれた日田領から、平地の乏しいリアス式海岸地帯への移転と
          いうことで、一般に懲罰的なものと考えられている。
           新城築城に際し、高政は番匠川河口の八幡山と女島の2ヶ所を候補地として幕府に申請し、
          八幡山が認められたといわれる。このとき、高政は女島を第一候補としていたとも伝えられるが、
          詳細は不明である。八幡山は、平安時代末期に豪族の緒方惟栄が八幡神社を勧請したことに
          ちなむとされ、築城に際して八幡神社は山の西麓に遷された(若宮八幡宮)。
           縄張りは、安土城の築城にも参画したとされる市田祐定が担当したが、峻険な山上に総石垣
          の城を築く工事は困難をきわめたといわれ、高政と対立した石垣普請担当の羽山勘右衛門が
          鉄砲で撃ち殺されるという事件も起きた。また、「一日三人切り捨て」とも伝えられ、多大な犠牲
          を強いた築城工事であったことがうかがえる。
           城は、慶長十一年(1606)に完成したとされる。2代高成までは、藩主は山城に居住していた
          が、寛永十四年(1637)、3代藩主高尚は山麓に三の丸を造営して移った。以降、山城は放置
          され、荒れるに任せていたが、宝永六年(1709)、6代藩主高慶は幕府の許可を得て城の修築
          工事を行った。築城当初、城には三層の天守が上げられていたが、この修理の際の絵図には
          天守は描かれておらず、この間に失われたものと推測されている。修築工事は20年もの歳月
          を要し、享保四年(1729)に完了したが、天守は再建されなかった。また、この工事では山麓の
          城内外の整備も行われ、それまで冠木門であった大手門が櫓門に改められたとされる。
           佐伯藩は、高政以来毛利家13代を数え、明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           佐伯地方は典型的なリアス式海岸なので、どこをとっても平地はほとんどなく、佐伯城下が
          とりたてて平坦地の多い場所というわけではありません。女島は佐伯城のあった八幡山の東
          1.5kmほどのところにあり、どちらに城が築かれたとしても、城下町建設にそれほど差が出た
          とは思えません。むしろ、女島は海岸線に浮かぶ小島で、あまり近世城郭に向いているように
          みえません。女島が第一候補だったというのは、私にはにわかには信じられませんし、まして
          幕府がわざわざ第二候補の八幡山を指定したというのはさらに眉唾です。同様の逸話の残る
          長州藩や仙台藩のような面従腹背の雄藩ならともかく、2万石の毛利家に幕府が神経をとがら
          せる必要があったとは、どうしても思えないからです。
           さて、現在佐伯城には、山麓の三の丸櫓門と山上の石垣群が残っています。三の丸櫓門は、
          城内唯一の建造物遺構ですが、無骨ながら勇壮で格調高く、規模も大きいことから全国の門
          遺構のなかでもかなり貴重なものであるといえます。三の丸脇から山上への登城路が2本あり
          ますが、南側のものが旧道です。この道は、まっすぐ登れば西出丸に到達します。山城部は、
          西出丸を南端に、北へ二の丸、本丸、北出丸と直線状に連なっています。どの曲輪も、近世
          城郭としては著しく狭く、本当に高政・高成父子はこんな狭い山上に居館を築いて住んでいた
          のかと疑ってしまいます。
           本丸は上下2段となっていて、上段の中心には天守台があります。上段へは、現在は石段
          がついていますが、これは後世に設けられたもので、当時は本丸上段は孤立しており、小さな
          堀切をはさんで、二の丸と廊下橋でのみ結ばれていたと考えられています。本丸の北には、
          城内で唯一の喰い違い虎口の向こうに北出丸が延びています。北出丸の西側山腹に、天然
          記念物のオオサンショウウオが棲息しているという水の手の雄池・雌池(オンイケ・メンイケ)
          がありますが、道に気付かなかったのが、訪れずに下りてしまいました。
           朝イチで登ったのですが、佐伯城址は市民の朝の運動コースになっているのか、どこから
          ともなくたくさんのウォーキング姿の人々が現れ、お互い毎日見知った仲といった感じで挨拶
          を交わしていました。城跡が格好のウォーキングコースとなっているのは珍しいことではあり
          ませんが、ここは飛び抜けて多くの方が集結していて、市や何かが奨励しているのかな、と
          感じました。

           
 大手門跡付近から佐伯城址を望む。
 中央に三の丸櫓門が見えます。
三の丸櫓門。 
 西出丸虎口。
西出丸のようす。 
画面中央の石壇は二重櫓跡。 
 二の丸虎口。
二の丸のようす。 
 二の丸から本丸を望む。
本丸のようすと天守台。 
 
 喰い違い虎口越しに本丸石垣を望む。
本丸からの眺望。 
市街地のなかに浮かぶ小山群のうち、右端が女島。 
 北出丸のようす。
本丸と二の丸の間の堀切。 
上に架かる橋は、当時は廊下橋だったと推測されています。 
 城下の武家屋敷のようす。


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