安土城(あづち)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 織田信長
 遺構  : 曲輪、石垣、天主台、礎石
 交通  : JR琵琶湖線安土駅徒歩15分


       <沿革>
           岐阜城に代わる織田信長の新たな居城として、天正四年(1576)から築城が開始された。
          安土山は、もともと六角佐々木氏の居城観音寺城がある繖山(きぬがさやま)の一支峰で、
          当時は三方を琵琶湖水に囲まれていた。
           普請奉行には丹羽長秀が着任し、俗に穴太衆と総称される近江各所の石工集団を動員し、
          総石垣造りの城が目指された。天正七年(1579)三月に天主が一応の完成を見て、信長は
          天主へと居所を移した。全体の完成は同九年(1581)のことで、翌十年(1582)の正月には、
          見物料を徴収して一般庶民にも公開された。このとき、豪華絢爛な天下人の城を一目見よう
          と、死人が出るほどの群衆が押しかけたという。
           天主自体の特異性はもちろんのことであるが、城主が天主に居住することも、城郭史を通じ
          て珍しいことであった。そのほか、本丸には京都御所の清涼殿に似た建造物があったことや
          (近年異説有)、総石段の大手道が天主に向けて直進していたことなど、他には類をみない
          特徴が、近年の発掘調査で明らかになってきている。
           竣工から1年足らずの天正十年(1582)六月一日、信長は本能寺の変に斃れた。このとき
          城を預かっていた蒲生賢秀・賦秀(後の氏郷)父子は、信長の妻子を自らの居城日野城に
          移して退去した。安土城は明智光秀によって占拠されたが、光秀は間もなく山崎の戦いで
          敗死した。報せを受けた城将明智秀満は、軍勢を率いて居城坂本城に退いた。
           この前後に、城は天主と本丸を中心に焼失した。火を放った人物については、織田信雄や
          明智秀満、土民による略奪や落雷によるものなど諸説あって未だ定かではない。
           清洲会議によって、織田秀信が家督継承者に決定すると、安土城はしばらく織田家当主
          の居所として、二の丸を中心に使用されていた。
           しかし、豊臣秀次が近江八幡城を築くと、安土城は廃され、城下の町屋も八幡へ移される
          ことになった。
           江戸時代には、信長が城内に築いたハ見寺の寺域とされた。ハ見寺はこの後築城当初の
          西支峰上から大手道脇へ移転し、同時に大手道を埋めて石垣を新たに築くなどした。


       <手記>
            10年ほど前に、一度発掘整備計画真っ只中の安土城を訪れたことがあります。今回再訪
           してまず驚いたのは、いつの間にやら安土入山が有料になっていたことです。ただ、安土城
           の価値や発掘整備の労力を考えれば、料金を支払うこと自体には別に抵抗はありません。
           問題なのは、徴収元が発掘整備を担当している県などの自治体や委員会ではなく、山の所
           有者というだけのハ見寺だということです。ハ見寺は確かに信長ゆかりの寺ではありますが、
           城跡の保存に寄与するどころか、勝手にあちこち手を加えていた張本人です。
            しかも発掘の間何ら手を貸す訳でもなかったのに、ある程度税金で整備が済んだところで
           いそいそとカネを徴収しだすとは、漁夫の利というか濡れ手で粟というか、坊主の金儲け主
           義には開いた口がふさがりません。
            ハ見寺に言いたいことはまだまだあるのですが、愚痴ばかりも何なので城の感想に入りま
           す。十年前は、既に大手道の石段や重臣屋敷の石垣までは復元されていましたが、今回さ
           らに大手口がきちんと整備されていました。発掘調査のみからでは推測しきれない門内の
           形状などについては、それと分かるような素材で区別してあり、学術的・工学的な仕上がり
           になっていました。
            ひたすら続く石段を、秀吉や利家、武井夕庵などの推定重臣屋敷跡を横目に登りきると、
           本城域の石垣が見えてきます。安土城は、二の丸が本丸より高所にある珍しい縄張りで(
           後世の改変とも言われていますが)、現在二の丸には信長の廟所があります。
            本丸には新たに発見された清涼殿形式建造物の礎石見本が並べられています。天主台
           の多角形の石垣については有名ですので多く語る必要は無いと思いますが、その石垣上か
           らは湖国近江の様子が一望できます。
            本城域は整備がまだこれからという様子ですが、今後のさらなる調査と整備、そして何より
           ハ見寺の真摯な態度を期待したいと思います。


           
 安土山遠望。
大手道。左に伝羽柴秀吉屋敷、右に伝前田利家屋敷。 
 大手道を上から望む。左にあるのがハ見寺。
 寺周りの石垣は安土城と関係ないものです。
大手口の復元石垣。
門の足場がどうなっていたか分からないため白石で区別してあります。 
 伝秀吉屋敷跡の石垣。
頂上に向かうにつれ石段がきつくなります。
左に伝武井夕庵屋敷跡があります。
 二の丸。右に信長の廟所があります。
本丸。中央に清涼殿形式建造物の礎石見本があります。
 天主台と天主礎石。
天主台石垣。
 百々橋口。昔はここからも出入りが出来ました。
 今はハ見寺が徴収口を一箇所に絞るため、フェンス
 で通行できないようにしています。
安土と琵琶湖をつないでいた常浜の跡。


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