桜城(さくら) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 金刺氏か | |
遺構 : 曲輪、堀 | |
交通 : JR中央本線下諏訪駅徒歩20分 | |
<沿革> 諏訪大社下社大祝金刺氏の居城として築かれたとみられているが、史料による裏付け はない。 永正十五年(1518)、金刺昌春は諏訪頼満に攻められ、「萩倉ノ要害(一般的に山吹城 を指すとみられている)」に拠ったものの、自落して甲斐の武田信虎のもとへ落ち延びた。 『日本城郭大系』では、桜城はこのときに廃されたとしているが、『中世城館調査報告書 集成』によれば、代わって武居氏が入城したとしている。武居氏は、昌春の族孫で、武居 祝を称して諏訪大社下社大祝の祭祀を継承した今井善政を指すとする説が有力である。 ただし、金刺氏の系譜や事跡には不明な点が多く、善政が昌春追放直後に桜城に入城 することができたとする見方には疑問が残る。 現地に建てられた地元の保存会の説明板には、武田氏滅亡時(天正十年(1582))に 廃城となったとあるが、論拠は不明である。 <手記> 桜城は、諏訪大社下社秋宮背後に張り出した尾根の1つに築かれています。眼下には 中山道下諏訪宿の街並みが広がり、下諏訪の領主の居城として相応しい位置にあると いえます。秋宮の南隣には、金刺氏の最初期の居館とされる霞城があり、桜城は信州 が直接争乱の舞台となった南北朝時代ごろに築かれたのではないかと考えられます。 城跡へは、宿場通りから城山の南東麓を回って背後の堀切に至る道が延びています。 途中、城の腰館(集会場)や下諏訪温泉の城山源泉といった、城跡ゆかりの名称を目に することができます。城山源泉の前の道は、古鎌倉街道だそうです。 現在、城跡は地元保存会お手製の公園として整備されており、花壇や展望台、説明板 などが設置されています。周囲には桜城の名にちなんだのか、桜や芝桜が多数植えられ ており、あと数年もすればかなりあざやかなピンクの山になるのではないかと思います。 縄張りは、主郭を中心に周囲に腰曲輪を巡らした、比較的単純かつ小規模なものです。 『大系』では、尾根先端側の主郭直下の腰曲輪を「二の郭」としていますが、主郭以外の 曲輪に番号を付けることは、あまり意味がないように感じました。とくに南側斜面の平場 は、ほとんどが耕作地に利用されており、城の遺構なのか後世の開発によるものか判別 不能です。 桜城でもっとも注目すべきは、背後の堀切群です。私が見てきた限り、諏訪地方の城 の堀切は基本的に1条ないし2条ですが、桜城にはなんと4条もの堀切が認められます。 この数は他に類を見ず、桜城が金刺氏の居城であったことを示す傍証となろうかと思い ます。他方で、4条堀切の他には虎口の工夫など目立った縄張り上の造作はみられず、 少なくとも武田氏がこの城を利用することはなかったのではないかと推測しています。 展望台からの眺望は素晴らしく、下諏訪の温泉街からふらっと立ち寄れるところなので、 保存会の方々には、大変でしょうがぜひ今後とも整備とPRをお願いしたいものです。 |
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下諏訪宿児湯(共同浴場)付近から桜城山を望む。 | |
城下の古鎌倉街道。 右脇の貯水槽が城山源泉。 |
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南東麓から主郭方面を望む。 右手に1条目の堀切が見えます。 |
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主郭のようす。 |
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展望台からの眺望。 中央の森が諏訪大社下社秋宮。 その向こう側にみえる赤い建物が霞城址。 |
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主郭側面。 芝桜のラインが土塁跡か。 |
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南側斜面の段築状平場群。 城の削平地跡かは不明。 |
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主郭背後1条目の堀切。 | |
同2条目。 | |
同3条目。 | |
同4条目。 |