霞城(かすみ)
 別称  : 霞ヶ城、手塚屋敷、手塚城
 分類  : 平山城
 築城者: 金刺氏
 遺構  : 堀跡か
 交通  : JR中央本線下諏訪駅徒歩15分


       <沿革>
           治承年間(1177〜81)に手塚光盛によって築かれたと伝えられるが、詳しい築城の経緯は
          明らかでない。光盛は、諏訪大社下社大祝金刺盛澄の弟で、木曽義仲が挙兵するとこれに
          従い、寿永二年(1183)の篠原の戦いで斎藤別当実盛を討ち取ったことで知られる。
           近年では、光盛は現在の上田市手塚を本貫地としていたと考えられているが、どのような
          経緯でいつごろ諏訪から移ったのかは不明である。下諏訪から塩嶺峠を越えた塩尻市にも、
          光盛居住の跡とされる小屋村屋敷がある。
           寿永三年(1184)、光盛は義仲に最後まで付き従い討ち死にした。光盛が諏訪を去った後、
          あるいは討ち死にした後に、霞城は兄盛澄の手に渡ったものと推測される。盛澄も義仲の
          死後源頼朝に処刑されそうになったが、梶原景時の取り成しによって頼朝の前で流鏑馬の
          技芸を披露し、それに感服した頼朝によって赦免された。
           その後も、霞城は金刺氏の平時の居館であったと考えられるが、確証はない。文明十五年
          (1483)、惣領家と大祝家に分かれていた諏訪氏に内紛が起きると、金刺興春は大祝家の
          諏訪継満と謀って、惣領家の諏訪政満を殺害した(文明の内訌)。興春は高島城を攻略した
          が、惣領家の家臣らと戦って討ち死にし、首を大熊城に晒された。このとき、下社は惣領家
          の兵によって焼き討ちに遭ったとされ、霞城も焼失したものと推測される。
           その後、諏訪氏を統一した政満の子頼満は、次第に金刺氏を圧迫するようになった。永正
          十五年(1518)、頼満は興春の子とも孫ともいわれる昌春を「萩倉ノ要害(『当社神幸記』)」
          に攻め、金刺一族は甲斐の武田氏を頼って落ち延びた。霞城がこのときまで存続していたか
          は微妙であるが、あったとすれば、遅くともこのときに廃されたものと考えられる。


       <手記>
           霞城は、諏訪大社下社秋宮の鎮座する台地の先端に位置しており、現在はホテル山王閣
          となっています。敷地内には、城址説明板のほか、金刺盛澄の銅像が建てられています。
           明確な遺構はありませんが、ホテルと大社敷地の間には切通状の道路が通っており、その
          上に橋が架かっています。この切通し道が、もともともの地形を利用したものであれば、台地
          の付け根を断つ堀切の跡ではないかと思われます。
           そして、もし堀切跡であるとすれば、霞城は盛澄・光盛兄弟の時代を下ってなお使用されて
          いた可能性が高くなるものと考えられます。後に、信州が争乱の舞台となるに及んで居城が
          桜城に移されたとみられていますが、平時の居館は霞城に置かれ続けていた可能性は十分
          あると思われます。

           
 霞城址に建つホテル山王閣。
城址説明板。 
 金刺盛澄像。
秋宮敷地との間の切通し道。堀切跡か。 


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