三仏寺城(さんぶつじ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 平時輔
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR高山本線高山駅からバスに乗り、
      「三福寺町」下車徒歩15分


       <沿革>
           保延・永治(1135〜42)のころに飛騨守に任官していた、平時輔によって築かれたと
          伝わる。春の高山祭で知られる日枝神社は、永治元年(1141年)に三仏寺城主の時輔
          が創建したとされることから、それ以前の築城とみられる。
           治承五年(1181)、木曽義仲が飛騨へ攻め入り、三仏寺城は落城した。このとき、時輔
          から4代目の景家の室阿紀伊の方と、景家の次男景綱の娘鶴の前が行方不明となった
          とされる。鎌倉時代には飛騨判官藤原朝高が在城していたとされるが、戦国時代までの
          三仏寺城の動向は一時不明となる。
           大永年間(1521〜28)ごろには、畑六郎左衛門安高が城主であったが、天文十六年
          (1547)に平野豊後守安室が大八賀郷を横領して三仏寺城に入った。安室は天文年間
          (1532〜55)に鍋山城を築いて移り、安室を降した三木良頼は弟の三木新左衛門直弘
          を三仏寺城主とした。
           永禄七年(1564)、三木氏は甲斐武田氏に攻め込まれ、直弘は城に火を放って逃亡
          したとされる。まもなく良頼も武田氏に降伏し、三仏寺領は飛騨高原郷領主の江馬氏に
          割譲された。三仏寺城はそのまま廃城となったとされる。


       <手記>
           上述の通り三仏寺城は平安時代末期の築城とされ、飛騨で最古級の城跡といわれて
          います。城といってもどの程度のものがあったのか疑問ですが、飛騨守として入植した
          平氏の開拓拠点となったことは事実なのでしょう。たしかに、大八賀川沿いには緩やか
          な谷戸が広がり、開発に適した地域だったものと思われます。
           南西麓の歓喜寺脇から登山道が整備されていて、駐車場や説明板もあります。城は
          南端から南の丸(出丸)、三の曲輪、二の曲輪、本丸と順繰りに並ぶ細長い構造をして
          います。三の曲輪は、曲輪というより櫓台といった感じの区画で、二の曲輪に至る尾根
          の造作はあまりはっきりとはしていません。二の曲輪下から東へ下りるルートが大手で、
          同じく西側が搦手ということです。大手方面には腰曲輪が数段連なっており、たしかに
          いくらか守りが厳重となっています。
           本丸には標柱が立っているものの、他の曲輪よりやや鬱蒼としていて、郭内のようす
          をうかがうのは少々困難です。背後には堀切が設けられていてもよさそうですが、一見
          した限りでは切岸で済ましているようです。
           本丸に向かって手前西側の斜面には、畝状竪堀群が見られます。畝状竪堀は三木氏
          再後期の築城術の特徴であり、三仏寺城が金森長近による天正十三年(1585)の飛騨
          平定戦まで使われていた可能性を示していると考えられます。さらにいえば、三仏寺が
          が江馬氏領となって三木領と接していたとすれば、防衛拠点として三仏寺城を使わない
          はずはないように思います。記録にはみられないのかもしれませんが、永禄七年に廃城
          になったというのは、状況的にみて不自然ではないかと感じます。

           
 南西から三仏寺城出丸跡を見上げる。
登城口の石碑と説明板。 
 南の丸(出丸)の土塁。
南の丸のようす。 
 三の丸を望む。
大手口の腰曲輪群。 
 搦手口の曲輪。
搦手のようす。 
 二の丸の一角。
本丸手前斜面の畝状竪堀群。 
 本丸のようす。


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