三条城(さんじょう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 市橋長勝
 遺構  : 堀跡
 交通  : JR弥彦線北三条駅下車すぐ


       <沿革>
           元和二年(1616)、高田藩主松平忠輝の改易を受け、伯耆矢橋藩主の市橋長勝が
          4万1300石に加増の上で三条藩に転封となった。それまでの藩府であった中世以来
          の三条城(三条島ノ城)は、水害による川欠があったとされ、長勝は信濃川の対岸に
          新たな三条城を築城した。
           元和六年(1620)に長勝が没すると、嗣子がなかったために改易となりかけたが、
          甥の長政が養子となり、近江仁正寺藩へ減転封された。代わって、越後藤井藩から
          稲垣重綱が2万3000石で三条藩主に転じた。その重綱も、慶安四年(1651)に刈谷
          へ転封となり、これによって三条藩は廃され幕領となった。
           三条城は長岡藩主牧野家の在番となったものの、寛永十九年(1642)に破却され
          た(『牧野家譜』)。破城年には、ほかにも元和九年(1623)説や寛永八年(1631)説
          がある。


       <手記>
           近世の三条城跡は三条元町一帯の市街地に呑み込まれています。三条信用金庫
          古城町支店あたりが本丸跡とされていて、周辺で部分的に行われた発掘調査では、
          堀跡などが検出されているそうです。
           北三条駅南側の交差点角には、江戸後期の絵図も付された説明板が設置されて
          います。それを見ると、駅の北側交差点の北からタクシー乗り場裏手へ曲線を描いて
          延びる水路跡の暗渠が、城の北端外郭のラインに相当するように見受けられます。
          存続期間の短い城ですから、遺構が少ないのも致し方ないところでしょうか。

           
 北三条駅前の説明板。
北三条駅北方のカーブを描く暗渠。 
外郭のラインか。 


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