三条城(さんじょう) | |
別称 : 三条島ノ城、三条嶋城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 三条左衛門か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR弥彦線北三条駅徒歩20分 | |
<沿革> 平安時代に三条左衛門が築いたのがはじまりと伝えられるが、三条左衛門の素性も 含めて詳細は不明である。11世紀半ばの前九年の役の後、安倍貞任の残党とされる 黒鳥兵衛が、城を奪って越後中を暴れまわったとも伝えられる。兵衛は源義綱に討伐 されたとされるが、実際には伝説上の人物および出来事とみられている。南北朝時代 には、南朝方の有力勢力の1つ池氏の拠点となったとされる。 三条城の存在が史料上明らかとなるのは、応永の乱さなかの応永三十三年(1426) に、守護代長尾邦景方の山吉久盛が守護上杉家方の攻撃を三条城で防いだとする ものである。山吉氏の出自も詳らかでないが、池氏の一族ないし被官、あるいは邦景 の系統の府中長尾氏が三条長尾氏とも呼ばれることから、邦景の家臣として三条城 を任されたものと推測されている。 その後も、三条城主山吉氏は越後長尾氏(後の上杉氏)に仕え続け、最有力家臣の 1人となった。しかし、天正三〜五年(1575〜77)に山吉豊守・盛信父子が相次いで 没すると、跡を継いだ盛信の弟の景長は、若年だったことから領地を半減された上で 三条城から木場城へと移された。代わって、三条城には神余親綱が入れられた。 天正六年(1578)の御館の乱に際し、親綱は上杉景虎方についた。景虎が自害した 後も、親綱は家督を継いだ上杉景勝に対して抵抗を続けたが、同八年(1580)に景長 が三条城内の旧臣に内応工作を行ったことにより、裏切りに遭って城内で殺された。 翌天正九年(1581)に新発田重家の乱が勃発するまでの間に、甘粕景持が三条城 の城主となった。同乱において、三条城は新発田城や新潟城などに対する前線拠点 として重用された。 慶長三年(1598)に上杉家が会津へ転封となると、越後には堀秀治が入国し、三条 には重臣の堀直政が封じられた。ただし、直政は若年の秀治の輔弼に当たっていた ため、三条城には城代として直政嫡男の直清が赴任した。同五年(1600)の関ヶ原の 戦いでは、上杉家の遺民一揆が三条城を襲ったが、直清はこれを撃退した。 慶長十五年(1610)、直清の弟の直寄は、兄が家督と家老職を継いだことに不満を 抱き、直清が領内の僧侶を無用に殺害していると徳川家康に直訴した。家康はこれを 有力外様大名排斥の好機と捉え、家中不行届として兄弟の主君である秀治の子忠俊 を改易処分とした(越後福嶋騒動)。 慶長十七年(1612)、高田藩主となった松平忠輝の附家老である能見松平重勝が、 2万石で三条城主となった。元和二年(1616)に忠輝が改易となると、伯耆矢橋藩主 市橋長勝が、4万石余に加増の上で三条藩主に転じた。長勝は信濃川対岸に新たに 三条城を築き直したため、それまでの三条城は廃城となった。 <手記> 上記の経歴が史実とすれば、平安時代から江戸時代初期までと非常に長い歴史を もつ城ですが、その所在は今もわかっていません。上の地図に示した瑞雲橋西詰の 道路脇に、「三条島ノ城跡」の石碑が建っているのが、唯一の縁ですが、この付近が 比定地かどうかも不明です。周辺の集落の並びと、現在の信濃川および中ノ口川の 流路は明らかに合っておらず、城の中心部は川の底ということも十分に考えられる でしょう。 |
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三条島ノ城跡の碑。 |