橘城(たちばな)
 別称  : 天王城
 分類  : 山城
 築城者: 大平国秀か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR予土讃線讃岐財田駅からバスに乗り、
      「財田小学校口」下車徒歩5分


       <沿革>
           大平伊賀守国秀の居城とされるが、いつごろ築かれたのかは定かでない。大平氏は、藤原
          秀郷流で鎌倉時代初期に讃岐守護となった近藤国平の子孫といわれ、国久は獅子の鼻城主
          大平国祐および麻城主近藤国久の弟とされる。
           天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親が讃岐へ本格的に侵攻し、国久や本篠城主財田
          常久らが攻め滅ぼされた。橘城もこのときに陥落したとみられるが、国秀の消息ともども詳細
          は不明である。


       <手記>
           財田川に臨むこんもりとした小山が橘城跡です。財田小学校建設によって南側中腹が一部
          削られているようですが、主郭周辺の遺構が良好に残っています。小学校入口付近に、日光
          にやられているものの作りのしっかりした地元中学生による説明板があり、そこから登る道中
          にも、詳しい縄張り図付きの説明板が設置されています。
           主郭には、大平氏の祖先である俵藤太(藤原秀郷)を祀った俵神社があり、境内周囲には
          土塁がぐるりと巡っていて、主郭南西隅部分は櫓台状に膨らんでいます。現在の境内入口の
          ひとつ北側に虎口が開いており、また南辺にも開口部がありますが、こちらは現地説明板の
          縄張り図には描かれていません。とはいえ、後世の造作としても何のために土塁を一部だけ
          崩したのか定かでなく、虎口ではないとする理由は分かりませんでした。
           主郭の北東下にはやや広い東郭があるそうですが、私が訪れた時点ではド藪となっていて
          踏査不能でした。東郭の西端には、主郭切岸と土塁に挟まれた虎口が開いていて、土塁は
          竪土塁として麓方面へ続いています。
           橘城の大きな特徴の1つが、北西と西に延びる支尾根の腰曲輪の付け根が、堀切ではなく
          両端が土橋となった空堀であるという点です。ただ印象的ではあるのですが、なぜ堀り切って
          いないのかと問うと合理的な理由が思い浮かびません。先の竪土塁もこの空堀も、緩やかで
          要害性に乏しい丘上の城にいろいろ前衛的な工夫を凝らしてみたものの…というような流れ
          が想い起こされてしまいます。これらの造作に納得のいく統一見解を与えるのは、おそらくは
          不可能でしょう。

           
 東から橘城跡を望む。
財田小学校入口付近の説明板。 
 登城路沿いの説明板。
主郭の俵神社。 
 主郭東辺虎口。
同上。 
 虎口脇の土塁。
主郭南西隅の櫓台状土塁。 
 南辺土塁の開口部。
 虎口跡に見えますが、現地説明板の
 縄張り図には描かれていません。
主郭南東隅付近の土塁。 
 主郭北下の東郭虎口。
虎口脇から続く竪土塁。 
 主郭北西支尾根の腰曲輪と、
 堀り切っていない空堀。
同空堀。 
 2段目の腰曲輪付け根の堀切。
2段目の腰曲輪。 
 主郭西支尾根の堀り切っていない空堀。
主郭から財田川上流方面の眺望。 


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