麻城(あさ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 近藤国久
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR予讃線高瀬駅からバスに乗り、
      「池ノ谷」下車徒歩15分


       <沿革>
           獅子の鼻城主大平国祐の弟の近藤出羽守国久によって築かれ、国久は麻殿と呼ばれたと
          される。大平氏は藤原秀郷流で鎌倉時代初期に讃岐守護となった近藤国平の子孫といわれ、
          国久は先祖の姓を自称したか、もともと麻には近藤氏が連綿と続いており、国久が養子として
          入ったものと推測される。
           天正五年(1577)、土佐の長宗我部氏に降っていた阿波の白地城主大西覚養が三好氏に
          通じると、長宗我部元親はこれを即座に攻め、覚養は国久を頼って落ちた。大西氏も近藤氏
          の後裔ともいわれ、また国平・国久兄弟の母は大西氏の女とされることから、領地を接する
          両氏は古くから関係が深かったものと推測される。
           元親は天正年間(1573〜92)に麻城も攻め落とし、覚養は長宗我部家臣となっていた弟の
          大西頼包の手引きに寄り再び降伏した。一方の国久は、麻城の谷に落ちて敗死したとされ、
          その場所は「横死ヶ谷(おじがや)」と呼ばれている。麻落城と国久の戦死により、近藤氏は
          滅んだ。落城時期は、元親が讃岐へ本格的に侵攻し、本篠城をはじめ周辺諸城が落城して
          天霧城主香川氏が降伏した同六年(1578)と推定されているが、確証はない。


       <手記>
           県道23号線沿いのさぬきアグリファーマー付近に麻城跡入口の看板があり、上図の樫谷と
          あるところの農道を登ります。鞍部まで上がると、柑橘畑の脇にもう1つ看板があり、その脇は
          広めの駐車スペースとなっています。その先は軽トラ道となっていて、車で行けないことはあり
          ませんが、狭く暗いのでここで下車して歩くのがおすすめです。やや距離はありますが、道中
          困難はないでしょう。私は知らずに金毘羅参りから車で来たのですが、最初の看板を見つけ
          られたのはラッキーでした。
           城山に入ると、小ピークの斜面に説明板が現れます。このピークは説明板では外郭とされる
          出丸で、かつてはこの斜面一帯までみかん園だったそうです。ピークの東側には堀切があり、
          その向こうも東端の小郭となっています。
           出丸と西側の主城域の間にも、「馬切」と呼ばれる堀切が1条設けられています。この鞍部の
          南側が、国久が落死したという横死ヶ谷だそうです。
           主城域の西端はめくれたように土塁が盛られ遮られており、その脇が虎口状となっています
          が、当時の遺構かは定かでありません。主城域は、大きく3段に削平されていて、最下段には
          「大門石」ないし「ねらい岩」と呼ばれる角材状の石が横たわっています。もともとあった露岩を
          削ったもののように見えますが、はっきりした用途は分かりません。
           山頂の主郭は樹木が除かれベンチが設置されていますが、周囲の木が邪魔して残念ながら
          現状でそこまで眺望は利きません。それ以上に、なぜか地面の土が砂状にふかふかしていて
          とても歩きにくかったのが気になりました。
           全体として、それほど規模の大きい城とはいえず、千単位の敵兵を防ぐのは土台困難だった
          ものと思われます。

           
 麻城跡説明板。
外郭のピーク。 
 外郭東側の堀切。
同上。 
 外郭東側の曲輪。
外郭と主城域の間の堀切。 
 主城域西端の土塁を見上げる。
同土塁を郭内側から。 
 大門石(ねらい岩)。
第三郭から第二郭および主郭を望む。 
 第二郭。
主郭のようす。 
 同上。
朝日山城模擬天守から麻城跡を望む。 


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