佐東銀山城(さとうかなやま) | |
別称 : 銀山城、金山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 武田信宗 | |
遺構 : 曲輪、堀、門跡 | |
交通 : JR可部線下祗園駅徒歩60分 | |
<沿革> 甲斐武田氏当主で安芸守護を兼ねた武田信宗によって、鎌倉時代後期に築かれたと伝わる。 ただし、安芸武田氏自体は源頼朝に従った武田信光が安芸守護に補任されたことに始まり、守護 在任は断続的ではあったものの、庶家が代官として銀山城付近の平地に居住していたとみられて いる。また、信宗自身が安芸へ下向した記録はない。 信宗の子・信武は、南北朝の争乱が始まると建武政権下で甲斐守護となった分流の武田(石和) 政義と対立し、足利尊氏の挙兵に応じて北朝方の安芸守護として参戦した。したがって、遅くとも 信武の代までには城が築かれていたと推測される。政義が戦死すると、信武の長男・信成ないし その子・信春が甲斐武田氏宗家の家督を継ぎ、信武の次男・氏信が安芸武田氏を継承した。 氏信は足利直冬を支持する安芸国人らの反乱に悩まされ、その制圧が思うように進まなかった ため、室町幕府から安芸守護職を今川貞世(了俊)に差し替えられた。氏信自身は佐東郡の分郡 守護に任じられたとされるが、異説もある。ただし、歴代安芸守護は国内を掌握するには至らず、 安芸武田氏は国内最有力の勢力として一定の影響力を保持した。氏信の孫・信守の代に応永の 安芸国人一揆が結成されると、信守はこれに理解を示して幕府や守護との間で仲介やバッファー の役割を果たした。 信守の弟ないし子とされる信繁の次男・信賢は、幕府から若狭守護に任命されて現地へ赴いた。 長禄元年(1457)、山口の大内教弘が佐東銀山城へ攻め寄せたが、信繁の四男で安芸武田氏の 後継となる元綱が初陣を飾り、撃退に成功している。安芸分郡守護職は若狭守護職と共に、信賢 ついで次兄・国信が継承したが、元綱・元繁父子は佐東銀山城主として若狭武田氏から独立して いった。 元繁は項羽になぞらえられるほど武勇に優れていたとされ、永正十二年(1515)にそれまで従属 していた大内義興から離反し、己斐城や水晶城などを相次いで攻め落として勢力の拡大を図った。 翌十三年(1516)、大内方の有田城を5千の大軍で攻囲した元繁は、1千余の毛利・吉川勢と合戦 に及び、又打川を渡ろうとした際に毛利勢の矢の一斉射撃を受けて討ち死にした。「西の桶狭間」 とも称されるこの有田中井手の戦いを指揮していたのは、幼主・毛利幸松丸の後見として初陣に 臨んだ毛利元就であった。 元繁の跡は子の光和が若くして継いだが、これ以降、安芸武田氏が昔日の勢いを取り戻すことは できなかった。ただし、光和も父と同じく武に秀でていたとされ、大永四年(1524)に大内氏が佐東 銀山城を3万の大軍で包囲した際には、尼子氏や当時同じく尼子氏に属していた毛利・吉川氏など の援軍を得てこれを撃退している。 光和が天文九年(1540)に病没すると、若狭守護・武田元光の子・信実が後嗣として迎えられた。 しかし、信実に弱体化した安芸武田氏をまとめる余力はなく、家臣は相次いで佐東銀山城を捨てて 逃げ去り、信実自身も同年中に尼子氏を頼って出雲へ落去した。同年秋に尼子詮久が毛利元就を 攻めるべく3万の大軍を動員すると、信実は尼子家臣・牛尾幸清の援兵を受けて佐東銀山城主に 復帰した。ところが、翌十年(1541)一月に尼子勢が毛利・大内連合軍に大敗すると(吉田郡山城の 戦い)、佐東銀山城は敵中に孤立することとなり、信実・幸清は出雲へと落ち延びた。 城には、元繁の子・下野守の子とされる武田信重が300の兵と共に残って抵抗を続けた。下野守 は元繁死後の安芸武田氏を支えた重臣・伴繁清と同一人物ともいわれる。佐東銀山城はまもなく 毛利勢の攻撃を受け、同年五月まで耐えたもののついに落城し、信重は自害した。このとき、元就 は1千足の草鞋に火を点けて夜の太田川に流し、これを夜襲と勘違いさせて城兵を大手に引きつけ、 その隙に搦手から攻め登らせて陥落させたとする伝承があり、今も太田川対岸に戸坂千足の地名 が残っている。ちなみに、後に毛利家の外交僧として活躍する安国寺恵瓊は、信重の子ないし弟と される。 安芸武田氏滅亡後、佐東銀山城は大内氏の支配下に入って城番が置かれた。毛利氏が中国の 覇者となった後も扱いは変わらず、元就の隠居城となる計画もあったといわれる。ただし、廃城の 経緯については明らかでない。 <手記> 広島市街の北部を睥睨するように聳える標高410mの武田山が、佐東銀山城跡です。麓の海抜は 10mに満たないため、比高は400mに及び、大きく2つある登山口からでも250m以上を登らなければ なりません。そのうち最寄りの下祗園駅から近いのは武田山憩の森ルートで、大手とみられる御門 跡を経由して山頂に至ります。もう1つは南西谷筋の鹿ヶ谷ふれあい広場から登るルートです。こちら の方が高度を稼げるうえ駐車場もあるようだったので、自分はこちらから訪城しました。ただ、途中の 道路はたいへん細く入り組んでいるため、小回りの利く車でないと危ないでしょう。 鹿ヶ谷ルートは、火山との間の峠から急な尾根筋を山頂へ向かいます。銀山城は山頂部の西側に もう1つピークがあり、これを抜けていくのですが、このピークの呼称は調べても分かりませんでした。 ただし、その1段下には弓場や権現堂といった削平地があります。弓場跡にはおもちゃの的と弓矢が 用意されていて、降雪の後とて誰もいなかったのでチャレンジしてみました。5本中1本当たったので、 なかなかの結果と言えるのではないでしょうか(笑)。また権現堂の南方の尾根には、中門や上高間・ 下高間といった門跡や曲輪が続いています。 主郭に相当する山頂部は御守岩台と呼ばれ、巨石露岩がごろごろとする中に象徴的な御守岩が 鎮座しています。かつてはこの石の上に小社があったそうで、当時は麓からでもその存在を仰ぐこと ができたのでしょう。山頂からの眺めは素晴らしく、広島湾に浮かぶ島々も一望できます。広島市民 の格好のハイキングコースというのも納得です。 御守岩台に東側1段下は館跡と呼ばれ、岩々に囲まれて広い平場が確保されています。山頂部の 東西尾根筋はどちらも堀切で遮断されていますが、とくに東側は犬通しと呼ばれ、通路も兼ねていた ようです。その証左として、犬通しの南東側下には武者溜りと呼ばれる腰曲輪が設けられています。 また、犬通しの北東は見張り台と呼ばれる石門を経て出丸に至るのですが、この下りがまた急で雪が 凍っていたため、大事をとってここで引き返しました。 さらに山頂部西側の堀切付近から南東方向の尾根へ進む道が憩の森ルートで、千畳敷という城内 でも最大級の曲輪を経て御門跡に通じます。千畳敷は本丸とも呼ばれるそうですが、御門(大手門)を 抜けてすぐに出る曲輪なので、主郭とみるのは少々不自然です。おそらく籠城時の城主らの起居する 建物等があったことに由来する呼称と思われます。 このように、佐東銀山城はかなりの比高差のある険しい岩山で、南北朝時代ごろに信仰の山を取り 立てた城砦であったことは想像に難くありません。古いタイプの山城であるにもかかわらず、戦国時代 後期までこの城が重要視されたのは、ひとえにこの山が安芸を治めるうえで要衝に位置していたから だと拝察されます。逆に言うと、安芸一国ついで中国地方の覇者となった毛利氏は、どこかのタイミング で佐東銀山城付近から太田川河口にかけての東海道筋に居城を移転させるべきだったろうというのが 私の見解です。元就が本当に隠居城とするつもりだったか否かは分かりかねますが、それを実行でき なかった時点で、毛利氏の限界を露呈しているように思われます。 |
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佐東銀山城跡全景。 | |
山頂(御守岩台)の説明板。 | |
御守岩。 | |
御守岩台からの眺望。 | |
同じく広島市街方面の眺望。 | |
館跡。 | |
館跡脇の鶯の手水鉢。 用途は諸説あり不明だそうです。 |
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山頂部西側の堀切。 | |
犬通しと呼ばれる同東側の堀切。 | |
見張り台。 | |
犬通り下方の武者溜り。 | |
千畳敷。本丸とも。 | |
御門跡。 | |
同上。 | |
権現堂の峰東側の堀切跡。 | |
権現堂跡。 | |
中門跡。 | |
上高間(うわたかま)と眺望。 | |
権現堂の峰の頂部。 | |
権現堂の峰の堀切。 | |
弓場跡。 | |
弓場跡西方の堀切。 |