旧郡山城(きゅうこおりやま) | |
別称 : 郡山城、本城、旧本城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 毛利氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR可部線可部駅からバスに乗り、 「安芸高田市役所前」下車徒歩20分 |
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<沿革> 毛利元就が郡山全山に城域を拡張するまでの、安芸毛利氏累代の居城とされる。安芸毛利氏は 越後国佐橋荘南条を本拠とした大江氏流・毛利経光の四男・時親が、文永七年(1270)に安芸国 吉田荘の地頭職を譲り受けたことにはじまるといわれる。建武三年(1336)、時親は安芸へ下向し、 翌四年(1337)に曽孫の元春へ所領を譲ったとされる。 北朝に属した元春は、文和元/正平七年(1352)に「吉田城」に籠って南朝方と戦うも、破却され ている。また、応安四/建徳二年(1371)には「郡山殿」という呼称が現れ、元春を指すとみられて いる(『毛利親衡書状』)。これらの点から、旧郡山城は元春によって築かれたともいわれているが、 確証はない。 元春の孫・光房のころになると、安芸守護となった山名氏に反発した国内の領主たちが安芸国人 一揆を結成し、毛利氏はその中心メンバーの1家となった。他方で坂氏らをはじめとする庶家が台頭 し、主家との間で軋轢を生じてたびたび郡山城を攻撃したとされる。 光房の孫・豊元以降、毛利氏は3代にわたり短命な当主が続いた。複雑な国内情勢における心労 や酒害が原因とされている。豊元の孫・興元が24歳で陣没すると、その遺児・幸松丸が跡を継ぎ、 興元の弟で多治比猿掛城主の毛利元就が後見となった。幸松丸も大永三年(1523)に夭折すると、 一族重臣の推挙を受けて元就が家督を継いだ。翌四年(1524)には、坂氏や渡辺氏に擁立された 異母弟の相合元網を攻め滅ぼし、家中の統率を図っている。 当時の毛利家は尼子氏に従っていたが、翌大永五年(1525)には大内氏へ帰属した。天文九年 (1540)、尼子詮久は3万の大軍を率い、吉田へと進軍した。吉田の北西に位置する風越山に陣を 布いた尼子軍に対し、元就は籠城の構えを見せた。『吉田物語』によれば2400人の兵力に加え、 非戦闘民を合わせて8千人ほどが参集したとされるが確証はない。 九月六日から城下で緒戦が繰り広げられたが、いずれも毛利勢の頑強な抵抗に遭って敗退して いる。九月二十三日、詮久は本陣を郡山城正面の青山・光井山(総称して青光山とも)へ進めた。 このとき、『陰徳太平記』等の軍記物によれば、元就は城内に潜入した尼子方の密偵に偽りの情報 を流し、進出先を郡山背後の甲山から青光山へ変更させたとされる。しかし、甲山から郡山山頂は 指呼の間に見下ろせるものの、旧本城は陰になって見えない。当時の郡山城はまだ拡張前とする のが通説であり、そうであれば尼子方の本陣を甲山に置くメリットはなく、この逸話の信憑性は薄い と言わざるを得ない。 その後、尼子軍は坂郷方面に後詰めとして進軍していた小早川勢や大内氏援軍の先鋒隊を攻撃 したが、郡山城からの援兵に挟撃されて敗退した。十月十一日には郡山城への直接攻撃を図った が、毛利勢の必死の抵抗や伏兵に遭って混乱に陥り、逆に青山の本陣へ突入されるほどの敗北を 喫した(青山土取場の戦い)。 十二月三日、陶隆房率いる大内氏援軍の主力約1万が住吉山に到着し、元就と隆房は年明けを 待って反転攻勢に出ることを約した。翌十年(1541)一月十一日、大内勢は郡山西方尾根の天神山 へ移動し、同十三日の早朝には毛利全軍が宮崎長尾の尼子方の陣を攻め立て、高尾久友らを討ち 取った。これに呼応し、大内勢は郡山の陰から江の川を渡り、東へ大きく迂回して青光山を背後から 強襲した。尼子勢は詮久の身が危うくなるほどの大混乱となり、「臆病野州」こと詮久の大叔父・尼子 久幸が決死の防戦に努めて討ち死にするなか、同日夜に雪路を退却した。 一連の郡山合戦(吉田郡山城の戦い)により、安芸・備後などにおける尼子氏の勢力は大きく減退 した。一方の毛利氏は安芸国内での存在感を確立し、その後の勢力拡大へと繋がった。 天文年間(1532〜55)の末ごろまでに、元就は郡山城の拡張に着手し、それまでの城域は郡山の 全山に及ぶ広大な新生・吉田郡山城の一部に組み込まれた。当初は元就の嫡男・隆元が居住した が、本丸に住んだとされる元就との連絡の不便から、尾崎丸へ移ったとされる。 <手記> 旧本城へは、郡山城のメインの見学ルートから外れる形で道が通じています。拡張された城域が、 その広大さに比べて堀などの防御施設に極めて乏しいのに対し、旧本城は前方に1本、背後に3本の 堀切を有するなど実戦的な構造をしています。他方で居館などを置くにはやや狭く感じられ、隆元が 本当にここに住んだのかは留保が必要にも思います。 郡山合戦時には数千人が籠ったとされていますが、もちろんそれほどの人数を収容できるキャパも ありません。ただ、一連の合戦は野戦が主で城を直接攻められた記録がないことから、元就の本隊 以外は城下に陣を張って展開していたとも考えられます。 いずれにせよ吉田郡山城見学においては、城跡ファンであれば旧本城も見逃すわけにはいかない 毛利氏の重要な遺構であるといえるでしょう。 |
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南東から郡山を望む。 東に延びる尾根の手前下が旧本城。 |
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アップで(画面中央、2本の尾根が重なっていますが、その手前側)。 | |
背後の堀切その1。 | |
その2。 | |
その3。 | |
堀切から本丸切岸を見上げる。 | |
本丸のようす。 | |
本丸背後の土塁。 | |
本丸から青山(左)・光井山(右)を望む。 | |
本丸下の曲輪を俯瞰。 | |
本丸域前方鞍部の曲輪。 | |
鞍部の先、土壇状の曲輪。 | |
2つの土壇状曲輪間の鞍部を見下ろす。 | |
同じ鞍部と左右に土壇状曲輪の切岸。 | |
先端側の土壇状曲輪の切岸。 | |
前方の堀切。 |