泉福寺(せんぷくじ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 堀跡か
 交通  : JR高崎線桶川駅よりバス
       「いずみの学園前」下車徒歩3分


       <沿革>
           『中世城館調査報告書集成』に記載があるが、詳細は不明である。
           現地説明板によれば、泉福寺は天長六年(829)開山の勅願寺で、山号の「東叡山」
          は東の比叡山の意とされる。源平合戦で焼失したものの、鎌倉時代中期に「河田谷殿」
          の庇護のもとで中興を成し、関東天台の祖山と呼ばれたとある。戦国時代に再び戦火
          に巻き込まれて衰退したものの、江戸時代には寺領5石を与えられていた。
           寺伝を見るかぎり泉福寺が城塞として使用された確証はない。


       <手記>
           泉福寺は今も広大な敷地をもつお寺です。荒川(かつての和田吉野川)とその支流の
          石川川の合流する舌状台地の先端に位置し、一応城館地形といえますが、傾斜は緩く
          台地上は広く平らで、要害性に優れているとは必ずしも言えない感じです。
           確実に城館遺構だと呼べるほどのものはなく、広い境内を歩いているとあちらこちらの
          凹凸がそれっぽく見えてきてしまいます。『集成』には堀とのみ記されているのですが、
          こちらもはっきりしたものは見受けられませんでした。樹叢として保護されている箇所の
          ほかはいろいろ開発されている様子なので、堀跡も工事で消滅したか藪に埋もれている
          可能性も考えられます。
           とはいえ衰退と復興を繰り返しながらも平安時代から今日まで続いている古刹である
          ことは間違いないようで、城砦化されたのであれば誰かが既存の寺院を取り立てたこと
          になります。ここから石川川を1kmほど遡ると三ツ木城があり、一説に鎌倉幕府草創期
          の有力御家人である足立遠元が築いたとされています。遠元の一子に川田谷遠村が
          あり、彼ないしその子が泉福寺を中興した川田谷殿と拝察されます。
           ただし、現存の三ツ木城の遺構は室町時代以降のものとみられ、泉福寺が城として
          取り立てられたとしても、やはり同じ頃だろうと考えられます。

           
 泉福寺山門。
同じく本堂。 
 境内から荒川河川敷を俯瞰。
堀跡のようにも見える溝状地形。 


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