茨木城(いばらき) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 茨木氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : 阪急京都線茨木市駅徒歩10分 | |
<沿革> 建武年間(1334〜36)に楠木正成が築いたとする説があるとされるが、北に位置する 福井城にも同様の伝承があり、総じて信憑性には疑問がもたれる。『大阪府全志』では 安富氏、『摂津志』では福富氏を築城主としているが、確証はない。 そもそもこの地には国人茨木氏があったため、その居城として築かれた可能性が高い と考えられる。茨木氏は、貞和五/正平四年(1349)の「鳥居造立条々注文」(『勝尾寺 文書』)に「茨木東太郎次郎」の名が見られるのが初出とされる。一方、茨木城について は応仁二年(1468)に、応仁の乱で東軍に属した野田泰忠が、「摂州茨木之城」に陣を 布いたとあるのが初見とされる(『野田泰忠軍忠状』)。文明二年(1470)時点では西軍方 となっていたようで、東軍の薬師寺与次(国盛)・四宮四郎右衛門尉(長能)らが茨木城を 攻め落とした(『野田泰忠軍忠状』)。 文明十四年(1482)、摂津国人一揆に参加した茨木氏は細川政元に攻められ、茨木城 は落ちて「伊ハラ木父子以下六七人」が自害した(『大乗院寺社雑事記』)。これにより、 茨木氏は一時没落し、茨木城は摂津守護代薬師寺元長に与えられた。守護代預りの城 として重視されていたのか、政元は摂州下向時にしばしば茨木城に止宿している。永正 四年(1507)、元長の跡を継いだ長忠らが細川澄之を擁立して政元を暗殺すると(永正の 錯乱)、細川高国を推す長忠の甥・薬師寺万徳丸(国長)が茨木城を攻め落とした。 大永七年(1527)の桂河原の戦いにおいて、茨木長隆は高国方から細川晴元方へと 寝返った。長隆の系譜は不明だが、京都代官として晴元から重用された。茨木城も長隆 の所有となったと推測されるが、裏付けはない。 三好長慶・細川氏綱と三好政長・細川晴元の間で天文十八年(1549)に江口の戦いが 勃発すると、長隆は後者に属した。前者が勝利して政長が討ち死にし、晴元と将軍足利 義輝が近江坂本へ落ち延びると、長隆も没落した。 この後、茨木城の動静はしばらく不明となる。永禄十一年(1568)に織田信長が上洛を 果たすと、茨木佐渡守(重朝)が織田氏に従っている。長隆と佐渡守の関係については 定かでない。 元亀二年(1571)の白井河原の戦いで、佐渡守は高槻城主和田惟政麾下の将として 参戦し、敵将の荒木村重に傷を負わせる奮闘を見せたが、討ち取られた。次いで茨木城 も村重勢に攻め落とされ、村重の子村次と荒木家臣中川清秀が入れられた。天正五年 (1577)には清秀が城主となったが、この間に大幅な改修が行われたものとみられる。 翌天正六年(1578)に村重が織田信長へ謀反を起こすと、清秀は同調したものの、間も なく織田方に降伏した。同十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで清秀が討ち死にすると、子の 秀政は同十四年(1586)に播磨国三木城へ加増・転封となった。茨木領は豊臣秀吉の 直轄となり、安威城主安威了佐や河尻秀長が代官を務めた。 関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、茨木城は片桐且元・貞隆兄弟に預けられている。 大坂夏の陣後の同二十年(1615)、且元は竜田藩4万石、貞隆は小泉藩1万6千石に封じ られた。同年の一国一城令を受けて、茨木城は翌元和二年(1616)に廃城となった。 <手記> 茨木城は茨木川沿いの平城で、茨木小学校の北端にかかる上に示したあたりが本丸 とされています。小学校には櫓門が復元されていますが、これは茨木城から移築された と伝わり、寺院の表門として現存している小泉陣屋の楼門を写したものだそうです。 また、小学校の南西に鎮座する茨木神社の東門は、茨木城の搦手門を移築したものと されています。地表面に遺構はなく、現地で目にできるのはこれらの門のみです。 |
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茨木小学校の復元櫓門。 | |
移築搦手門と伝わる茨木神社東門。 |