石神井城(しゃくじい)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 豊島氏
 遺構  : 土塁、空堀
 交通  : 西武池袋線石神井公園駅徒歩15分


       <沿革>
           平安時代後期に武蔵国豊島郡に拠った豊島氏は、鎌倉時代後期に石神井川を遡るように勢力を
          西へと広げ、石神井城を築いて本拠を移したとされる。
           戦国時代初頭、豊島氏は扇谷上杉氏家宰太田道灌と対立するようになった。文明八年(1476)に
          長尾景春の乱が勃発すると、豊島泰経・泰明兄弟は景春方についた。泰経は石神井城に、泰明は
          平塚城に拠って、両上杉方の道灌と対峙することとなった。翌九年(1477)四月十三日、道灌勢が
          平塚城に攻め寄せたため、泰経は城を出て翌日十四日に野戦に及んだ。この江古田・沼袋の戦い
          で、豊島勢は泰明以下多数の戦死者を出して惨敗し、泰経は石神井城へ逃げ込んだ。
           道灌勢は間を置かず愛宕山に陣を張り、激しい攻城戦となった。同月十八日に、城を取り壊すと
          いう条件で和平交渉がはじまったが、泰経が破城に応じなかったため、同月二十八日に総攻撃が
          行われた。泰経はその夜に城を脱出し、平塚城へ向かった。
           石神井落城に際しては、泰経とその娘照姫が家宝の金の鞍にまたがったまま三宝寺池に飛び
          込み自決したとする伝説があり、三宝寺池の対岸には2人の墓とされる殿塚・姫塚がある。しかし、
          上記のとおり実際には泰経はこのとき死んでおらず、後に平塚城で再挙している。
           落城後、城は廃されたものと思われる。


       <手記>
           石神井城は、豊かな自然の残る石神井公園の一角にあり、三宝寺池と石神井川に挟まれた舌状
          台地上に築かれています。ただし、舌状地形にありながらその先端ではなく頚部に選地されている
          という特徴をもっています。そのため、むしろ三宝寺池を背後の頼みとする崖端の城の様相を呈して
          います。
           氷川神社の東、三宝寺の北に主郭(現地の表記では内郭)があり、主郭西側の土塁と空堀が最も
          良好に残っています。氷川神社と三宝寺は、城の副郭(外郭)にあたります。また、主郭の南東方面
          にも土塁や堀跡とみられる谷底道があります。主郭一帯は遺構保全のため立入禁止となっており、
          フェンスが張られています。とはいえフェンス越しでも、とりわけ主郭西側の土塁と空堀は見ごたえが
          あります。
           三宝寺池は落城悲話などとは無縁ののどかな公園で、カメラマンがカワセミのダイビングを撮るため
          に集まっていました。


           
 三宝寺池越しに石神井城址を望む。
三宝寺池ほとりの城址碑。 
 主郭西側の土塁と空堀。
主郭南東の空堀跡と思われる谷底道と土塁。 
 主郭南側の土塁と空堀跡に走る道。


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