芝山城(しばやま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 香西氏
 遺構  : 削平地、土塁
 交通  : JR予讃線香西駅徒歩30分


       <沿革>
           勝賀城主香西氏によって支城として築かれたとみられるが、築城の経緯は定かでない。
          戦国時代末期には、円座城主渡辺市之亟・三之亟兄弟が守っていた。
           天正十年(1582)に土佐の長宗我部元親が香西氏を攻めると、芝山城のすぐ南にある
          藤尾城周辺で激戦が繰り広げられ、香西佳清は長宗我部氏に降伏したが、芝山城でも
          戦いがあったかどうかは詳らかでない。
           天正十一年(1583)に羽柴秀吉が十河存保救援の兵を送ると、羽柴家臣小西行長が
          軍船2隻に100人程度の兵を乗せ、使者と称して香西氏の港へ着けようとした。しかし、
          市之亟はこれを跳ね返し、芝山城内から大砲を撃ち放って行長を追い払ったとされる。
           天正十三年(1585)に秀吉が四国を平定すると、香西氏は所領を失った。これにより、
          芝山城も廃城となったものと推測される。


       <手記>
           藤尾城跡の北にある芝山神社の丘が、芝山城跡です。南からの参道は緩やかな階段
          で、長いものの登るのは苦ではありません。本殿の裏手に削平地が延びていて、その
          東側は土塁のように盛り上がっています。
           そこからさらに北へ進んで少し下ると、もう1つ広めの削平地に出ます。その北縁は、
          低いながらも明らかに人工の切岸となっていて、虎口状の窪み地形も見られます。ここ
          が、芝山で最も城跡らしく感じられました。
           山頂と北側の削平地の2郭から成る城のように見えるのですが、現地説明板によると、
          本丸・北ノ丸・南ノ丸の3郭から成るとあります。土塁のある最高所の曲輪を本丸とする
          と、その北の曲輪は北ノ丸となり、もう1つ南ノ丸があることになります。ですが、これが
          どこなのか、あるいは実在するのか、よく分かりません。南の参道をだいぶ下ったところ
          に、1か所平らな地形があり、あるいはこれとも考えられます。また、土塁のある最高所
          と芝山神社本殿周辺はわずかながら高低差があり、前後の曲輪に分かれていた可能性
          もなきにしもあらずですが、いずれにせよ確証はありません。
           1つだけ言えることは、2つだろうが3つだろうが、曲輪自体の防御力はさしてないという
          点です。芝山はかつて独立した島だったということから、城で守るというよりは島に敵船
          を近寄らせなければそれでよいという発想だったものと推察されます。

           
 南側参道下の標柱。
参道の階段。 
 芝山神社本殿。
主郭の土塁とみられる土盛り。 
 土盛り上からの眺望。
北ノ丸か。 
 北ノ丸北縁の切岸。
同じく虎口状の窪み地形。 
 南側参道脇、南ノ丸跡か。


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