野田城(のだ)
 別称  : 大津城、城山
 分類  : 山城
 築城者: 佐竹兵庫助・中山三郎左衛門尉か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、
 交通  : JR東海道本線島田駅からバスに乗り、
      「上野田」下車徒歩10分


       <沿革>
           観応の擾乱が勃発した観応元/正平五年(1350)、足利直義方についた元駿河守護・
          石塔義房の家人である佐竹兵庫助・中山三郎左衛門尉らは、今川氏被官の伊達景宗に
          敗れ大津荘の山中に退き、城を築いて抵抗を続けた。翌観応二/正平六年(1351)八月、
          再び景宗率いる今川軍が大津の城を攻囲した。城方は20日ほど耐えたとされるが、同年
          九月八日に落城した。この大津城を、今日の野田城山に充てる説が古くから提唱されて
          いるが、確証はない。
           時代は下り、戦国末期に徳川家康と武田信玄が対立した際、武田家臣・初鹿野伝衛門
          が野田の城山に砦を築いたと伝わる。この説は、江戸時代後期に島田宿の歴史家・桑原
          藤泰が現地へ赴き地元の古老から聞き取ったものとされるが、史料上の裏付けはない。


       <手記>
           国道1号線バイパス野田ICの北側にある半独立丘が野田城跡です。登山口はいくつか
          ありますが、北麓から城山古墳経由で登るのが最も分かりやすくおすすめです。反対に、
          西の尾根筋にある「ばらの丘公園」には注意しなければなりません。この園は有料なうえ、
          城山への道は途中でゲートに閉ざされています。つまり、入場料を払ったにもかかわらず
          城跡にはたどり着けないという、二重にツライことになるのです^^; 私は北麓から登って
          西尾根のゲートまで来たところで北側に折れ、谷筋を下りて茶畑に出ました。城山は近年、
          地元の保存会によって整備されているらしく、今後さらに見学しやすくなっていくものと期待
          されます。
           北麓から登ると城山古墳という円墳があり、その手前の尾根にも階段状の腰曲輪群の
          ような地形が見られますが、城域に含まれるかは定かでありません。はっきりしているのは、
          山頂の主郭を中心として北尾根に少なくとも2条、南東尾根に2条、西尾根に1条の堀切が
          認められ、その前後や脇に腰曲輪とみられる平場が散見されるということです。
           野田城の使用期間については、上述の通り一般に南北城時代と戦国末期の2説がある
          ようです。現存する遺構から拝察するに、最終的には戦国時代の改修が入っているものと
          思われます。ただ、武田氏が取り立てたにしては造作が簡素なので、初鹿野伝衛門云々が
          事実としても、もともとあった城跡をそのまま臨時に使っただけではないかと推察されます。
           逆に、南北朝時代の城としてはシステマティックに設けられた堀切などには違和感を覚え
          ます。佐竹兵庫助らから見れば臨時の砦であり、恒常的に用いる予定はなかったでしょう
          から、この城山に拠ったとしても山頂を削平した程度で山そのものに立て籠るといった感じ
          だったのではないかと考えられます。
           そこで私見としては、縄張りの規模や完成度などを鑑みるに、兵庫助ら直義方を駆逐して
          北に駿河攻略の拠点として今川城を築いた今川氏が、その前衛として野田城を取り立て、
          斯波氏が遠江守護となると境目の防衛拠点として改修されたのではないかと考えています。
          そして、応仁の乱を経て今川氏の遠江支配が進むと、役割を終えていったん廃城となったの
          ではないでしょうか。

           
 北西から野田城跡を望む。
北麓の登山口にある説明板。 
 城山古墳。
古墳手前の尾根筋にある腰曲輪群状地形。 
城域に含まれるかは不明です。 
 北尾根の堀切その1。
堀切脇の支尾根の腰曲輪状平場。 
 堀切上の腰曲輪。
北尾根の堀切その2。 
 主郭のようす。
主郭の土塁。 
 主郭に付随する腰曲輪状地形。
同上。 
 南東尾根の腰曲輪。
南東尾根の堀切その1。 
 堀切間の曲輪。
南東尾根の堀切その2。 
 同上。
西尾根の堀切。 
 西尾根の曲輪跡か。


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