今川城(いまがわ)
 別称  : 今川の段
 分類  : 平山城
 築城者: 今川範氏か
 遺構  : 削平地、切岸か
 交通  : JR東海道本線島田駅からバスに乗り、
      「慶寿寺入口」下車徒歩5分


       <沿革>
           大草郷の慶寿寺は、1345年(貞和元年)に駿河今川氏2代・今川範氏が創建したと伝わる。
          その本堂背後の丘上は「今川の段」と呼ばれ、今川氏の城跡とされる。範氏は足利尊氏から
          駿河守護に任じられた今川範国の嫡男で、文和二年(1353)に家督を継いだが、父に先立ち
          貞治四年(1365)に病没した。その跡は範氏の長男氏家、次いで次男の泰範が継ぎ、泰範・
          範政父子のころに、今川氏は駿府入りを果たしたとみられている。
           なお、今川城を観応元/正平五年(1350)に足利直義方の佐竹・中山氏らが築いた大津城
          に充てる説もあるが、今日では野田城に比定され有力説とは見做されていない。


       <手記>
           慶寿寺は眼前に大津谷川を臨む丘陵の中腹にあり、境内には範氏の墓があります。裏手の
          尾根先へ登ると「今川城趾」の標柱があり、郭内は茶畑だったようですが、今では放棄されて
          藪化が進行しています。
           また曲輪の前方、本堂の背後には範氏が植えたと伝わるシダレザクラ(2代目)があります。
          その城内側には人工の切岸地形があり、もし遺構とすればたいへん貴重といえるでしょう。
           範氏がここに拠ったとする確証はありませんが、状況的にはあり得ない話ではないと考えて
          います。すなわち、大津城を攻め落として家督を継いだ範氏が、駿府を目指す上での一時的な
          拠点としてここに居館を設け、花倉城あたりまで進出できたところで役目を終えて、慶寿寺が
          開基されたとすれば時系列的な辻褄が合います。また、慶寿寺周辺の大津谷川中上流域は
          袋状の地形を呈していて、その出入り口を野田城が扼しています。野田城を防衛拠点とすれば
          今川城は居館程度の備えで済み、攻め込む側としてはかなり合理的な拠点を構築できる場所
          だったのではないかと、私見として推察しています。

           
 慶寿寺本堂。
「今川城趾」の標柱。 
 郭内と思われる尾根頂部の現況。
同上。 
 同上。
今川範氏ゆかりと伝わるシダレザクラ。 
 シダレザクラ脇の切岸状地形。
今川範氏の墓。 


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