下並榎砦(しもなみえ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 飯塚氏か | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR信越本線北高崎駅徒歩15分 | |
<沿革> 『中世城館調査報告書集成』に飯塚常仙との関連が指摘されている。常仙は、 江戸時代初期に水運業を営んでいた人物で、寛永五年(1628)に下並榎砦跡に 並榎山常仙寺を創建したとされる。 飯塚氏が砦主であったことを直接示す資料はないが、『長野業正家臣録』には 並榎城主として飯塚忠則という人物の名がある。忠則と常仙の関連は不明だが、 あるいは飯塚氏は並榎城と下並榎砦(および砦の北北東に位置する飯塚城)を 有する在地領主であり、後に飯塚氏に連なる常仙が武士を捨てて商人となった ものとも推測される。 <手記> 砦跡とされる常仙寺は、烏川の河岸にあり、南辺と西辺が斜面となっています。 したがって、東辺と北辺に堀を設ければ要害として成立するわけですが、このうち 東辺の河岸側の堀跡と思われる凹地が、寺と民家の間に残っています。 旧中山道が砦跡の麓で烏川を渡っており、戦国期にもここに渡河点があって、 これを押さえる目的で築かれたであろうことは容易に想像がつきます。並榎城も、 道路はないものの眼前に信越本線の烏川鉄橋があり、だからというわけではない ですが、こちらも渡河点を押さえる役割をもっていたのではないかと推測されます。 したがって、飯塚氏は烏川の往来に対して大きな権限を有しており、それが後の 水運業への転身へとつながったと考えることができるものと思われます。 余談ですが、常仙寺の麓には小さな天守閣のような高層建築をもつ民家があり ます。下並榎砦というより高崎城を意識されているものと思いますが、なんとなく 奇縁を感じます(笑)。 |
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常仙寺。 | |
東辺堀跡。 | |
南側から砦跡を見上げる。 |