飯塚城(いいづか)
 別称  : 上飯塚城
 分類  : 平城
 築城者: 飯塚氏か
 遺構  : 堀跡、土塁跡
 交通  : JR上越線北高崎駅徒歩10分


       <沿革>
           和田城北方の備えとして築かれたとみられている。詳細は不明だが、天正十八年(1590)
          の小田原の役で和田城が開城するとともに廃城になったものと考えられる。
           『中世城館調査報告書集成』には、飯塚常仙との関連が指摘されている。常仙は江戸時代
          初期に水運業を営んでいた人物で、寛永五年(1628)に下並榎砦跡に並榎山常仙寺を創建
          した。
           また、『長野業正家臣録』には、並榎城主として飯塚忠則という人物の名がある。飯塚氏と
          飯塚城の関連は詳らかでないが、並榎城との位置関係から、飯塚城がもともと飯塚氏の居城
          として築かれたとの見方もできよう。


       <手記>
           飯塚城は、井野川の支脈に北面した平城です。常福寺の境内が内郭の西半分にあたります。
          内郭とそれを取り巻く外郭からなる輪郭式の城であったようですが、宅地化や畑地化により遺構
          の確認は困難です。
           『集成』の縄張り図と照らし合わせると、常福寺北東の畑の中に、堀と土塁の痕跡をみることが
          できます。また、飯玉神社の東側の民家脇にも、完全に側溝となった堀の痕跡をうかがうことが
          できます。
           常福寺の南には、大永三年(1523)に箕輪城主長野業正によって祀られたとされる飯塚夫婦
          薬師如来があります。長野氏家臣に飯塚氏の名があることから、飯塚氏と飯塚城の関連が指摘
          できるものと思われます。


           
 内郭跡に建つ常福寺。
常福寺北東の堀跡。 
 同土塁跡。
飯玉神社東側の堀跡。 


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