国分館(こくぶん)
 別称  : 国分氏館
 分類  : 平山城
 築城者: 国分胤通か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、虎口跡か
 交通  : JR総武線市川駅/京成本線市川真間駅
      などからバスに乗り、「国分」下車徒歩3分


       <沿革>
           千葉氏庶流国分氏の居館とされる。国分氏は、平安末に千葉常胤の五男・五郎胤通が下総国
          葛飾郡国分郷に拠ったことにはじまる。胤通は他の千葉一族と共に源頼朝の挙兵に応じ、香取郡
          大戸荘に地頭職を与えられた。国分氏の家督は胤通の嫡男とみられる時通が継ぎ、胤通自身は
          他の子らと共に大戸荘へ赴いた。
           時通が没すると、国分氏嫡流は没落したとみられ、惣領は大戸荘の矢作氏に移った。国分領の
          その後については詳らかでない。また、胤通は文治五年(1189)の奥州合戦で陸奥国宮城郡や
          名取郡にも所領を与えられ、奥州国分氏が分かれたといわれる。ただし、奥州国分氏については
          途中で小山氏流の長沼氏ないし結城氏が婿養子が入って系統が変わったとする説、ないし当初
          から小山氏流(藤原秀郷流)であったとする説も有力視されている。


       <手記>
           国分の地名は下総国分寺・国分尼寺が置かれたことに拠っており、西側には下総国府にちなむ
          国府台があります。現在も、金堂跡とされる場所に真言宗の「下総国分寺」が建っていて、北には
          石碑や発掘調査地点の説明板も設置されています。
           国分氏の居館跡がどこにあったかは、今もはっきりしていません。ただ、現在の本堂境内南東に
          舌状の台地先端部があり、住宅地の先に土塁状地形を伴う平場がみられます。土塁と宅地の間は
          虎口ないし空堀状を呈しており、その住宅街側には、宅地には不自然なより高い土塁状の地形が
          延びていました。開発が進んでいるので断言はできませんが、これらの地形および選地からみて、
          ここに城館が設けられていた蓋然性はかなり高いように思います。城館跡とすれば、これらの土塁
          や平場、虎口状開口部などは貴重な遺構といえるでしょう。
           ただし城跡であったとしても、平安末から鎌倉前期の国分氏の居館というよりは、室町時代以降
          のものと考えるのが自然と思われます。国分氏の嫡流が細々と戦国時代くらいまで残っていたか、
          あるいは享徳の乱などの混乱期に小城砦が設けられたのかもしれません。

           
 東方から国分館跡推定地を望む。
推定地先端部の平場。 
 平場先端の小祠。
推定地からの眺望。 
 推定地平場の土塁状地形。
土塁状地形脇の虎口状開口部。 
 開口部付け根側の土塁状地形。
同上。 
 推定地西半の住宅地。
住宅地と下総国分寺の間の切通し状道路。 
 国分寺跡石碑。
発掘現場説明板。 
 現在の下総国分寺。


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