国府台城(こうのだい)
 別称  : 市河城、鴻之台城
 分類  : 平山城
 築城者: 千葉氏か
 遺構  : 土塁、堀、井戸
 交通  : 京成本線国府台駅または北総線
      矢切駅徒歩20分


       <沿革>
           康正元年(1455)、千葉氏重臣の原胤房と一族の馬加康胤は主君・千葉胤直とその子・胤宣を
          攻めて自害に追い込んだ。胤直の弟・胤賢の子である千葉実胤・自胤兄弟は市河城で抵抗した
          が、翌二年(1456)一月十九日に落城して武蔵へ逃れた(武蔵千葉氏)。この市河城を国府台城
          の前身とするのが一般的であるが、確証はない。
           文明十年(1478)の境根原の戦いに臨み、太田道灌が国府台に着陣した。翌十一年(1479)、
          道灌の弟の資忠がこの地に城を築いたとされ、これが「国府台城」のはじまりとされる。市河城が
          国府台城の前身とする場合、「市河城」は千葉兄弟の落去と共にいったん廃されたことになると
          みられる。
           天文七年(1538)、小弓公方・足利義明と北条氏綱の対立が先鋭化して第一次国府台合戦に
           発展した。義明は、里見義堯や真里谷信応ら約1万の兵で国府台城に入ったが、さらに手勢を
          率いて北上し、相模台城まで押し出した。対する氏綱は南向かいの松戸城に布陣し、相模台で
          激戦となった。この戦いで義明・義純父子は討ち死にし、足利方は敗北したが、義明を見限って
          いた義堯は国府台城に留まって洞ヶ峠を決め込み、無傷で撤退している。したがって第一次に
          ついては、国府台周辺は戦場になっておらず、『本土寺過去帳』には「相模台合戦」と記されて
          いる。小弓公方は一戦にして滅び、北条氏は上総の真里谷氏まで降伏させているが、国府台城
          の扱いについては定かでない。
           永禄五年(1562)十二月に北条氏康が上杉方の武州松山城を攻めると、上杉謙信は里見氏
          に援軍を求め、義堯は嫡男・義弘を向かわせた。北条方は、永禄六年(1563)一月に国府台で
          これを迎え撃ったが、敗れて里見軍は武蔵国内へ進軍した。しかし、翌二月に松山城が降伏・
          開城したため、義弘も兵とまとめて帰国した。
           同年末、江戸城将の一人である太田康資が上杉氏に通じ、江戸城奪取に失敗して出奔した。
          翌永禄七年(1564)一月、義弘は国府台城へ入って康資および同族の太田資正と合流し、1万
          2千の兵で北条氏と対峙した。氏康は2万の軍を率いて攻め寄せたが、遠山綱景と富永直勝の
          隊が突出して国府台へ攻め上がり、里見勢の反撃に遭って討ち死にした。両名は江戸城3将の
          残る2人で、康資の離反を防げなかった責任を感じての無謀突撃であったとされる。
           緒戦の勝利に気をよくした義弘は、その夜に正月の宴を催した。しかし、主力は無傷であった
          北条勢は翌未明に国府台を急襲し、不意を突かれた里見軍は混乱に陥って潰走した。この戦い
          で里見家重臣・正木信茂や、義弘の甥で15歳の初陣であったとされる里見忠弘らが戦死した。
          なお、近年では永禄七年の第二次国府台合戦は前年同月の戦いとひとまとめに混同されで伝え
          られたものといわれ、その経緯を巡っては諸説紛糾している。また、討ち死にした正木大膳亮に
          ついて、以前は「槍大膳」と称された正木時茂に充てられていたが、今日では上述の通り、その
          嫡男の信茂に比定されている。
           その後、北条氏が国府台城を拡張したともいわれるが、確証はなく、第二次国府台合戦を以て
          史料からは姿を消している。


       <手記>
           国府台合戦の舞台として知られる国府台城跡は、今日では江戸川沿いの里見公園として整備
          されています。周知のとおり、江戸川は江戸時代に利根川の分流として付け替えられたもので、
          当時は渡良瀬川下流の太日川が付近を流れていたと考えられています。正確な流路はもはや
          不明ですが、国府台が下総・武蔵往来の重要な渡河点であったことは間違いないでしょう。周辺
          は古くから発展していた地域で、国府台とは下総国府が置かれたことにちなんでおり、東方には
          国分寺があります。
           南向きの細い小峰上に築かれており、公園の頂部が主郭跡とみられます。最高地点には明戸
          古墳があり、主郭の土塁や櫓台に転用されていたと推測されます。また、古墳の東側は谷戸状
          の園路となっていて、堀跡と思われますが公園の造成もあって断言はできません。古墳の2基の
          石棺は江戸時代から露出していたようで、『江戸名所図会』にはそれぞれ里見弘次と正木大膳
          のものとする伝承が載せられていますが、さすがに「誤なるべし」と結ばれています。石棺の蓋と
          見られる板石は、園の南側中腹にある「夜泣き石」の台座に使われていると考えられています。
          夜泣き石には、弘次の末娘がはるばるやって来て、この石にもたれて息絶えるまで泣き続けた
          のが由来と伝えられるそうです。ただ、上記の通り弘次はこのとき初陣で、物心のついた子女が
          いたとは考えられず、石棺と同じく国府台合戦に事寄せて生み出された話とみられています。
           江戸時代には總寧寺が移され、明治維新後は陸軍の病院が建設されたそうで、主郭以外の
          構造については推測も困難です。ただ、南麓には羅漢の井という湧水があり、その脇は江戸川
          の水辺になっているなど、都心周辺とは思えないのどかな風景も留めています。

           
 里見公園入口の城址碑。
里見公園東側から城山を望む。 
 夜泣き石。
夜泣き石脇の里見将兵慰霊碑。 
 主郭跡のようす。
主郭の土塁か。 
 明戸古墳。
古墳の石棺。 
 古墳から続く土塁状地形。
古墳外側の堀跡状地形。 
 同上。
堀跡状地形の東側の土塁状地形。 
 城山から都心方面の眺望。
その他、園内の土塁状地形。 
 同上。
城山から江戸川沿いへ下りる階段。 
 江戸川の水辺。
羅漢の井。 


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