麻場城(あさば)
 別称  : 白倉城
 分類  : 平山城
 築城者: 白倉氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 上信電鉄上州新屋駅徒歩20分


       <沿革>
           東の仁井屋城と合わせて、在地領主白倉氏の居城とされる。白倉氏は坂東八平氏の
          1つ秩父氏の庶流とされ、秩父行弘の子成季にはじまるとされる。行弘は、秩父重綱の
          子行重の子とされるが、詳しい系譜は定かでない。成季は、承久三年(1221)の承久の
          乱で討ち死にしたと伝わる。
           『甘楽町史』によれば、麻場城は成季の子成氏が築いたとされる。他方で、『日本城郭
          大系』では、根拠は不明だが文明年間(1469〜87)の築城としている。現地説明板では、
          「約370年間」存続していたとしながらも、「戦国時代初期の築城」としている。
           白倉氏は上州八家と呼ばれる大家に成長し、山内上杉氏が関東管領および上野守護
          となると、上杉氏に従った。白倉重佐の代には、上杉四宿老の1人に数えられた。重佐
          の子道佐の代の天文二十一年(1552)、山内上杉憲政は北条氏の圧迫に抗しきれず、
          居城平井城を棄てて越後の長尾景虎を頼った。道佐も憲政に付き従ったようで、麻場城
          は北条氏の手に落ちたものと推測される。
           永禄三年(1560)に景虎が憲政を擁して関東へ進出すると、道佐も麻場城を回復した。
          このときに景虎によって編纂された『関東幕注文』には、小幡道佐と記されている。小幡
          氏は、白倉氏と同じく上州八家の1つであり、また秩父氏庶流の同族でもあるが、道佐と
          の関係については詳らかでない。
           永禄九年(1566)、武田信玄が上州中部へ進出すると、道佐は武田氏に降った。天正
          十年(1582)に武田氏が織田氏によって滅ぼされると、道佐の子重家は織田家臣滝川
          一益に従属した。しかし、同年中に本能寺の変が起きると、他の上州の在地領主たちと
          同じく、北条氏直に降った。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際して、重家は小田原城に籠り、重家の弟重高が
          麻場城(白倉城)を守ったが、麻場城は前田利家・上杉景勝ら北国勢に攻め落とされた。
          北条氏が滅亡すると、白倉氏は所領を失い、麻場城も廃城となった。

       <手記>
           麻場城は、真北に延びる舌状台地の先端に位置し、西麓には白倉川が流れています。
          300mほど東には、並びの別の舌状台地先端に仁井屋城があります。一般的には、両城
          を合わせて白倉城と呼ばれています。
           現地説明板や『大系』では、両城を「典型的な別城一郭(双子城)」と持ち上げています。
          ですが、私にはこの2つを「別城一郭」と呼ぶことには強い違和感を覚えます。2つの城の
          間には、地形・縄張り・空間上の断絶があり、別個の城とみるべきだろうと考えています。
          2つの城を合わせて白倉城を「総称」することと、城郭史学上の「別城一郭」に当てはめる
          ことは別物です。白倉氏の分家に新屋氏があることからも、白倉氏の居城麻場城と一族
          の城ないし支城として、2つの城は並び立っていたものとみています。『大系』に至っては、
          両城の関係は孫子が云々とまで敷衍して考察していますが、私には在地領主の居城の
          域を出るものにはみえず、そこまで遠大な戦略構想をもって築かれているようにはどうも
          思えません。
           現在、麻場城址は史跡公園としてきれいに整備されています。北東麓に駐車スペース
          があり、ここに城址碑や説明板もあります。麻場城は、縦に並んだ本丸と二の丸を基調と
          していますが、本丸の北東隅の先に、堀切を隔ててごく小規模な腰曲輪が続いています。
          東麓から登ると、まずこの腰曲輪に到達します。
           麻場城の特徴は、本丸と二の丸が豪快な空堀に完全に囲まれていることです。草木が
          きれいに刈られていることもあって、ひときわ美しく見えます。ですが、せっかく三方を斜面
          に囲まれた台地先端を利用しているのに、わざわざ斜面の内側に空堀を設けて、傾斜に
          よる防衛力を弱めてしまっているように見えてなりません。私には、一番の謎です。
           二の丸の南半分以南は、耕作地や宅地となっていて、残念ながら史跡保存区外です。
          この二の丸の北辺には、当時の遺構かは不明ですが土塁があります。これがもし遺構で
          あるとするならば、私にはこれが二番目の謎です。というのも、二の丸は本丸よりやや高く、
          ちょっとした足がかりさえあれば本丸内部を俯瞰することができます。そこへ、先の土塁が
          本丸側に向いて設けられているわけですから、何のための土塁なのか分かりません。
           このように麻場城は、遺構は素晴らしいのですが、ちょっと不思議な城です。ただ、整備
          が行き届いているので、目の保養にはもってこいです。「儀一の城館旅」管理人儀一さん
          に、日没前の最後の1城としてオススメいただいたのも納得でした。
          
 北東麓の城址標柱と説明板。
本丸を囲う空堀。 
 同上。
本丸北西隅の空堀脇の切れ込み。 
搦手か。 
 二の丸から空堀越しに本丸を俯瞰する。
本丸と二の丸の間の空堀。 
 二の丸の土塁か。
本丸北東隅の先に延びる腰曲輪の堀切。 
 本丸北辺の帯曲輪の切岸。


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