白鳥城(しらとり) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR高山本線西富山駅徒歩25分 | |
<沿革> 木曽義仲に仕えた義仲四天王の1人・今井兼平が陣を布いた、あるいは南北朝時代に 陣城が設けられたともいわれるが、いずれも伝承の域を出ない。富山城主神保長職が、 上杉謙信に備えて詰城を築いたのが、本格的な城のはじまりとみられている。 永禄五年(1562)、長職は謙信に降伏して射水・婦負2郡のみ領有を許された。白鳥城 もこのとき上杉氏の手に渡ったと考えられる。しかし、元亀二年(1571)に長職・長城父子 は上杉氏に背き、神保氏と結んだ一向一揆勢によって、白鳥城は翌三年(1572)に攻め 落とされた。その後、謙信が帰国しては一向一揆が勢いを盛り返すといった展開が続いた が、天正四年(1576)までには上杉氏が越中を平定した。 天正六年(1578)、謙信が死去して御館の乱が勃発すると、織田勢が飛騨から越中へ 侵攻して富山城を抜いた。これに前後して白鳥城も落ちたとみられるが、攻城戦の有無 は不明である。 織田政権下で越中国主となった佐々成政は、天正十二年(1584)に始まる小牧・長久手 の戦いに際して反羽柴(豊臣)秀吉の立場をとった。翌十三年(1585)八月、織田信雄を 大将とする秀吉の先遣隊が越中へ派遣されると、成政は兵を富山城に集めて籠城の構え を見せた。これに対し、羽柴勢は白鳥城を本陣として大峪城や安田城を築き、神通川の 西岸に兵力を展開した。白鳥城が秀吉の陣所となったといわれることもあるが、秀吉自身 は倶利伽羅峠に滞陣したため、白鳥城にいたのは信雄とみられている。兵力に歴然たる 差があり、救援も見込めなくなった成政は、包囲から7日ほどで降伏を決断した。成政には 新川郡のみ安堵され、神通川以西は前田利家に与えられた(富山の役)。 豊臣勢の白鳥在城は比較的短期間であったが、現存する白鳥城の遺構は織豊系城郭 としてひと通りの完成度に達している。このことから、白鳥城は役後も前田氏により国境の 拠点城として整備されたものと考えられている。その場合、文禄四年(1595)に新川郡が 利家の嫡男利長に与えられるまでに、廃城となったものと推測される。 <手記> 富山市街の西方に細長く伸びる呉羽丘陵の最高峰、標高145mの城山が白鳥城跡です。 丘陵は断続的に公園化され、自然も豊かな富山市民憩いの場となっています。城山の東 には富山市街や立山連峰を一望できる城山展望台があり、その近くに白鳥城址碑があり ますが、ここは城外です。展望台下か、城山の西側に駐車場があり、どちらからも遊歩道 が通じています。 城内は歩きやすいものの、歩道以外は総じてド藪で、とくに堀跡が雑草に埋もれてよく 分からなくなっているのは残念な点です。それを除けば、曲輪や土塁の形状はきれいに 保たれていて、織豊系城郭としての見応えは充分にあります。 |
|
大峪城跡から白鳥城跡を望む。 | |
北一の丸跡。 | |
北一の丸の堀切。 | |
北一の丸脇の谷筋の曲輪。 大手虎口とする見方もあるようです。 |
|
本丸下曲輪。 | |
本丸虎口か。 | |
本丸と櫓台状の土壇。 | |
本丸のようす。 | |
二の丸。 | |
二の丸脇の土橋状の土塁。 | |
土橋状土塁の内側(本丸側)の空堀。 | |
同じく外側の空堀。 | |
二の丸下の堀切。 | |
三の丸のようす。 | |
東出丸。 | |
西一の丸。 | |
西一の丸下の帯曲輪。 | |
西二の丸。 | |
西二の丸下の空堀。 | |
西出丸。 | |
城山展望台下の城址碑。 ここは城外です。 |
|
おまけ:城山展望台からの眺望。 ちょうど飛行機が富山空港へ下りていくところでした。 |