白石城(しろいし)
 別称  : 益岡城、枡岡城
 分類  : 平山城
 築城者: 刈田氏
 遺構  : 石塁、土塁、曲輪跡、復興天守等
 交通  : JR東北本線白石駅徒歩15分


       <沿革>
           白石城の築城は、平安末期の刈田氏に遡るとされる。鎌倉時代以降、刈田氏の後裔を称する
          白石氏が在城していた。白石氏の系図によれば、刈田氏は藤原経清の子経元にはじまり、奥州
          藤原氏初代藤原清衡の兄弟にあたると伝わる。ただし、この系譜を裏付ける確証はない。
           13世紀に入り、跡取りのいなかった白石長俊は伊達政依の子宗弘を養子とした。その後、白石
          氏は伊達氏に従属し、伊達政宗が岩出山に転封すると、その配下であった白石宗実も水沢へと
          移った。
           代わって旧伊達支配地域に入った蒲生氏郷は、白石に重臣蒲生郷成を配し、城を修築した。
          氏郷の死後、今度は上杉氏の領地となり、白石の守将には甘糟清長(景継)が任じられた。
           関ヶ原の戦いで上杉景勝は西軍についたため、白石城は東軍の政宗により攻撃された。清長
          は、このとき会津に出向いていたため、指揮は甥の登坂勝乃がとった。勝乃は、伊達勢の一斉
          攻撃の前に降伏した。
           戦後伊達領となった白石には、はじめ政宗の叔父石川昭光が入り、慶長七年(1602)十二月
          には片倉小十郎景綱が入城した。片倉氏によって現在の縄張りに仕上げられたものとみられ、
          以後明治維新にいたるまで片倉氏の支配が続いた。なお白石城は、一国一城令の特例として、
          伊達藩で仙台城の他に唯一「城」として認められていた。
           文政二年(1819)には、天守にあたる御三階櫓が焼失し、同六年(1823)に再建された。平成
          七年(1995)に復興された天守は、このとき再建された晩年の姿をもとにしている。


       <手記>
           白石城は、掛川城などと並ぶ「本物志向」の「平成の築城ブーム」の火付け役の1つで、古図面
          や発掘調査をもとに、当時の建築様式にしたがった木造復興天守です。
           その姿は小ぶりでややずんぐりとしているものの、最上階の花頭窓と廻縁が特徴的で、とても
          優美に感じられます。城の中では、親切なボランティアスタッフの方がいていろいろと案内してくれ
          ます。この日は残暑が厳しかったのですが、最上階は蔵王おろしが窓を吹き抜けて、とても涼しく
          快適でした。
           地方都市の御他聞に漏れず、白石市街の目抜き通りもなんとなく寂れてしまっていました。城
          のほかには、残念ながら茅葺の屋根に雑草が生えてしまっている武家屋敷くらいしか見るところ
          がありません。せっかくなかなか見ごたえ十分な城として蘇ったので、これを生かして町おこしを
          してもらいたいものです。街中の一角にある製麺所で食べた名物の白石温麺は、とても美味しく
          おすすめです。


           
 復興御三階櫓(天守)。
 同上。 
 大手一の門と二の門。
   大手一の門と二の門を天守から。 
その奥には白石市街が広がります。 
 本丸裏御門跡。
本丸辰巳櫓跡。 
 本丸の古い石垣(左側は復元石垣)。


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