四稜郭(しりょうかく) | |
別称 : 新台場、神山台場、新五稜郭 | |
分類 : 星形要塞 | |
築城者: 旧幕府軍 | |
遺構 : 土塁、堀、虎口 | |
交通 : 「四稜郭」バス停下車すぐ または「神山通」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 明治元年(1868)、榎本武揚率いる旧幕府軍は五稜郭を占領し、蝦夷地を支配下に置いた。 新政府軍の襲来に備え、五稜郭は翌明治二年(1869)三月までに改修・増強された。五稜郭 は三方を海岸と函館山に囲まれていたが、唯一北東側が丘陵地帯の広がる弱点だったため、 これを補う支塞として同年四月に四稜郭が建造された。旧幕府軍兵士約200人に加え、付近 の農民を100人ほど徴発し、昼夜兼行の工事で数日のうちに完成させたといわれる。設計と 建設の指揮は、旧幕府軍陸軍奉行大鳥圭介ないしフランスの軍事顧問ジュール・ブリュネが 執ったとされる。 同月に乙部・江差に上陸した新政府軍は、五月に入るころには函館平野に到達した。同月 十一日に箱館総攻撃が始まり、四稜郭には岡山藩・徳山藩を中心とする約4千の兵が攻め 寄せた。松岡四郎次郎率いる旧幕府軍守備隊は奮戦したものの、五稜郭との間に位置する 権現台場が新政府軍に占領されたため、退路を絶たれるおそれから五稜郭への撤退を余儀 なくされた。 四稜郭はあくまで五稜郭の支塞であるため、箱館戦争の終結によりそのまま放棄された。 <手記> 四稜郭は五稜郭の北北東約4kmくらいのところにあります。雁皮山の裾野の丘陵地帯に あり、斜面は緩やかなのでとりたてて要害の地というわけではありません。 城内は史跡公園としてきれいに整備されています。戊辰戦争後は忘れられた要塞として 荒れるに任せていたそうですが、それをここまで復元したというのはかなりの感嘆ものです。 他方でせっかくの観光資源なのに交通の便が悪く、入り口に「四稜郭」というバス停はある ものの、とても観光で利用できる本数は走っていません。産業通りの「神山通」バス停から 権現台場を経由して少し歩いていくのが現実的です。 名前の通り五稜郭より稜堡が1つ少ないわけですが、この形状はメインの要塞に対する 支塞としてはヨーロッパでもよく見られるもので、縄張り自体は決して急場しのぎで見劣り のするものというわけではありません。むしろ気になるのは、城内の面積の狭さです。本来 このタイプの星形要塞であれば、南北方向に1.5倍は引き延ばさないと、4つの稜堡の威力 を発揮することはできないでしょう。事実、『大系』によれば実際に戦闘で使用された大砲は 北側の2門だけという口碑が伝えられているそうです。これを同書では新政府軍が北側から 攻めてきたからとしていますが、私の印象としては4稜堡すべてで大砲を使用すれば、城内 の籠城兵がただでは済まなかったからではないかなと推察しています。 四稜郭のもう1つの特徴は、南に1か所だけ開いた純和風の枡形虎口です。この形状は 五稜郭にも見られません。そのため、前述の構造上の欠陥と合わせると、四稜郭の建設 指揮を執ったのはやはり西洋軍人のブリュネではなく、大鳥圭介ないし旧幕府軍の誰か なのかなと感じています。 ちなみに、現地の説明板には土塁には登らないよう但し書きがあるので注意しましょう。 他方で、ウィキペディアにはバッチリ土塁上から俯瞰した写真が載っているのが少々意外 です。 |
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入り口の枡形虎口。 | |
城内のようす。 | |
二重の土塁。 | |
城内から虎口を望む。 | |
隅の稜堡の1つを外側から。 |