青蓮寺城(しょうれんじ)
 別称  : 青木城
 分類  : 山城
 築城者: 青木氏か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : 近鉄大阪線名張駅からバスに乗り、
      「百合が丘」下車徒歩5分


       <沿革>
           『日本城郭大系』によれば、大江貞元親王の家臣青木民部尉信定の居城であったと
          される。大江貞元親王なる人物については、清和天皇の皇子に貞元親王があり、また
          江戸時代中期の編纂とされる『美濃明細記』には大江広元の後裔と称する後醍醐天皇
          の側近に大江貞奥・貞元父子があったとする記述がある。ただし、寛政三年(1854)に
          青木氏累代の墓を建立した青木庄兵衛は信定の11代子孫を称しており、貞元親王と
          大江貞元のどちらの家臣としても、世代が合わない。
           他方で、『大系』の愛宕山砦の項には、鎌倉時代末ごろに黒田悪党が青蓮寺に移り
          住んだと伝えられるとある。黒田悪党とは、名張郡にあった東大寺領黒田荘の悪党を
          指すもので、大江氏が同荘の荘官を務めていた。伊賀三大上忍に数えられる百地氏
          や伊賀十二頭の滝野氏などもこの大江氏の末裔といわれ、あるいは青木氏も同族で
          ある可能性も考えられる。
           『大系』によれば、天正九年(1581)の第二次天正伊賀の乱で青蓮寺城は織田軍に
          攻め落とされ、青木氏は姓を宇喜多と改めたうえで柏原城に立て籠もったと伝わると
          される。一方で、『伊乱記』には柏原城の籠城方に青蓮寺新兵衛の名が見られること
          から、青蓮寺城主として青蓮寺氏の存在も示唆している。


       <手記>
           青蓮寺城は南東のみ峰続きの緩やかな丘上にあります。北向かいには愛宕山砦が
          ありましたが、百合が丘のニュータウン開発により消滅しています。北麓から登山道が
          付いていて、説明板や駐車場もこちらにあります。
           方形の堀と土塁に囲まれた典型的な伊賀式城館で、南東辺だけ地蔵院に削れれて
          いますが、他の三辺は規模も大きく残存状況も良好です。郭内は地蔵院の畑となって
          いて入れませんが、全体像の把握は容易でしょう。
           明瞭な遺構に対し、論点となるのは城主です。とくに青木信定について、民部尉など
          という名乗りは不自然で、出自や身分はもちろん生存年代についてもあやふやです。
          ただ、寛政三年の青木庄兵衛の11代前とするなら、ちょうど第二次天正伊賀の乱時の
          城主として齟齬はありません。青木信定が実在したとするなら、最後の城主とみるのが
          妥当なように感じます。

 愛宕山砦跡付近から青蓮寺城跡を望む。
北麓駐車場脇の説明板。 
 北西辺の堀と土塁。
西隅付近の堀と土塁。 
 同上。
南西辺の堀と土塁。 
 郭内のようす。
地蔵院。 


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