柏原城(かしわら) | |
別称 : 滝野城、滝野十郎城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 滝川氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口、井戸跡 | |
交通 : 近鉄大阪線赤目口駅徒歩20分 | |
<沿革> 土豪滝野氏の居城とされる。滝野氏は伊賀十二人衆に数えられる伊賀の頭目の1家 で、名張郡黒田荘の荘官であった大江氏の後裔ともいわれる。伊賀三大上忍のの1つ である百地家も大江氏流とする説があり、どちらも事実とすれば、両家は同族ということ になる。同じ峰の上手に滝野氏古城があり、いずれかの時期に柏原城を新たに築いた ものと考えられるが、確証はない。 天正九年(1581)九月の第二次天正伊賀の乱において、伊賀衆ははじめ比自山城に 立て籠もって抵抗したが、総攻撃の前日に悉く柏原城へ逃げ込んだ。総勢1600名余と いわれる籠城兵は、夜ごとゲリラ戦に出るなどなおも激しく抗戦したが、ついに滝野十郎 吉政を名代として降伏・開城した。 伊賀平定後は織田氏の属城となったようで、翌天正十年(1582)に本能寺の変が起き ると、当時の城主であった織田家臣日置大膳亮が国を離れた隙に、伊賀衆が蜂起して 柏原城を奪取した。織田信雄は兵を差し向けたものの、またも伊賀衆のゲリラ戦の前に 苦戦を強いられ、尾張からの加勢をもってようやく和議にこぎつけたとされる。 早ければこのとき、遅くとも天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで信雄が伊賀を 喪失するまでの間に、廃城となったものと推測される。ちなみに、吉政はいずれかのころ に帰農し、柏原に居を構えて慶長七年(1602)に没したと伝わる。 <手記> 伊賀忍者vs.外部権力の最終決戦地となったことから、伊賀の城館でもとくに重要かつ 知名度も高い城跡といえるでしょう。西麓の勝手神社北東角から案内が出ているので、 訪城も容易です。三方を水田地帯に囲まれており、今でも城山の山裾にはぬかるんだ 箇所が見られることから、当時は泥湿地に囲まれた要害地形だったものと思われます。 柏原城は伊賀式の方形主郭を中心に、南東辺から北東辺にかけて帯曲輪が巡って いるほか、峰続きの南東側にもう1条、堀切と土塁が認められます。主郭は北隅の土塁 が櫓台状に広がっているほか、南西辺の虎口には石積みの痕跡が見られます。また、 土塁は壬生野城などと同じくギザ歯状に毀されており、最終的に破城処分を受けたこと がうかがえます。櫓台状土塁や虎口の石積みは、パッと見は織田氏による改修のように 思えますが、伊賀を代表する地頭であった滝野氏が既に築いていたと考えることもでき、 それ以上の判断材料もありません。 同様のことは帯曲輪と尾根筋の堀切にもいえます。帯曲輪は郭内に段差があったり、 土塁自体が2段になっていたりと細部まで作り込まれており、臨時に増設されたとは考え にくいでしょう。一方、尾根筋の堀切は浅く狭く、帯曲輪と比べると急ごしらえの感があり ます。考えられる可能性としては、1つには滝野氏の居城として帯曲輪までは築かれて いて、天正伊賀の乱に際して1600人もの人員を収容するために、堀切が増設されたと するもの。もう1つは、帯曲輪は織田氏時代の拡張で、堀切は本能寺の変の際にやはり 臨時に設けられたとするものです。 どれが正しいかは確かめようもありませんが、伊賀を巡る攻防で争奪の的となった城と して、いろいろと想像を掻き立てさせられます。ちなみに、主郭には「お滝女郎化粧井戸」 という井戸跡があり、お滝という女性が許嫁を失くした悲しみのあまり身を投げたと伝え られているそうですが、いつのころの話かわからず、城と直接の関係があるのかどうかも 不明です。 |
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西側から柏原城跡を望む。 | |
登城口の説明板。 | |
登ってすぐの横堀。 | |
主郭の虎口。 | |
主郭のようす。 | |
同上。 | |
お滝女郎化粧井戸。 | |
ギザ歯状に毀された主郭土塁。 | |
櫓台状態の主郭北隅土塁上。 | |
主郭南東辺の堀と土塁。 | |
主郭東隅の堀と土塁。 | |
主郭北東辺の堀と土塁。 | |
帯曲輪の仕切り土塁。 | |
帯曲輪の虎口状地形。 | |
帯曲輪南東辺の堀と土塁。 | |
帯曲輪の土塁。 2段になっています。 |
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尾根筋の堀切。 | |
同上。 |