下曾根氏館(しもぞねし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 下曾根氏
 遺構  : 土塁
 交通  : JR中央本線・身延線甲府駅よりバス
       「下曾根」バス停下車徒歩5分

       <沿革>
           甲斐源氏の祖源清光の子の1人厳尊(玄尊)は曾禰禅師を称した。曾根郷(現在の
          上曾根・下曾根および笛吹市寺尾を含めた地域)を拓いたものと考えられているが、
          その居館がどこに置かれていたかは不明である。厳尊の子孫は、15世紀前半までに
          は系譜が途絶えている。代わって、甲斐守護武田信重の子賢信が曾根氏を称した。
          下曾根氏館は賢信の代に築かれたともいわれるが、確証はない。
           永正二年(1505)からの油川信恵の叛乱に際しては、上曾根村の勝山城が信恵方
          の拠点となっているが、曾根氏の動向については詳らかでない。永正十七年(1520)
          の都塚の戦いでは、曾根昌長と下曾根出羽守が武田信虎方の大将として、反信虎
          国人連合軍と戦っている。これが、下曾根氏が明確に一次史料に現れる最初のもの
          とされる。昌長は賢信の孫とされるが、出羽守の素性については定かでない。『甲斐
          国志』に、「曾根ノ一流下曾根村ニ分流シテ氏族ニ命スルヘシ」とあることから、曾根
          氏から下曾根氏が分家したものと推測される。
           出羽守の縁者とみられる下曾根源六郎信恒(覚雲軒浄喜)は、武田信玄に仕えて
          小諸城主(『甲陽軍鑑』では城代(城主は武田信豊))を務めた。天正十年(1582)の
          織田信長の武田攻めに際し、信恒は小諸城へ撤退した信豊を殺害して寝返ったが、
          不忠であるとして誅されたとされる。
           同年中に本能寺の変が起こると、残された下曾根一族は徳川家康にしたがった。
          信恒の孫信正は、天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると上野国碓氷郡
          に1千石を与えられた。遅くともこのときに、館は廃されたものと推測される。
           ちなみに、旗本下曾根氏からは、幕末の砲術家下曾根信敦を輩出している(筒井
          政憲の次男なので血縁はないものと思われる)。


       <手記>
           下曾根氏館跡は、実際寺境内となっています。南辺と、東辺・西辺の一部の土塁が
          コの字型に残っています。『甲斐国志』には堀跡も残存しているように書かれています
          が、今では西辺に沿って細い水路が通るのみです。
           城址碑や説明板のようなものはありませんが、駐車場脇に曽根の土地を詠みこんだ
          俳句のようなものが彫られた石碑があります。同じように俳句のようなものが彫られた
          同形の石碑が周辺にチラホラみられるため、この地域の自治体が主体となって建てて
          回っているもののようです。

           
 実際寺。
東辺の土塁跡。 
 南東隅のようす。
南辺の土塁。 
 東辺の土塁跡。


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