川崎城(かわさき) | |
別称 : 塩谷城、蝸牛城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 塩谷朝業 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR東北本線矢板駅からバスに乗り、 「塩谷病院」下車徒歩20分 |
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<沿革> 藤姓塩谷氏初代の塩谷朝業によって、正治年間(1199〜1201)ごろに築かれたとされる。 朝業は宇都宮業綱の次男で、嗣子のなかった堀江城主塩谷朝義の養子となった。朝義は 源姓であったが、これ以後塩谷氏は藤姓となり、川崎城は塩谷氏の居城として続いた。 応永三十年(1423)、塩谷教綱は主筋の宇都宮持綱を狩猟に誘い、謀殺した。持綱は、 宇都宮分家の武茂氏の出で、先代当主満綱の婿養子となっていたが、同族の教綱がこの 相続に不満をもっていたためとも、鎌倉公方足利持氏に通じたためともいわれる。それから 35年を経た長禄二年(1458)、今度は教綱が宇都宮城に誘い出されて殺害された。その後 も、塩谷・宇都宮両家の関係は不安定化したが、教綱の子隆綱が宇都宮正綱の四男孝綱 を養嗣子としたことで、和睦に向かった。 孝綱の一子孝信は、分家の喜連川城主喜連川塩谷氏を継いでいたが、永禄七年(1564) に川崎城を急襲し、兄の義孝を殺害した。このとき、孝信は塩谷氏重臣で川崎城大手門の 門番を務めていた木村和泉を抱き込み、夜半に精鋭16騎を率いて彼の手引きにより城内に 侵入したと伝わる。 このとき、義孝の遺児弥六郎が脱出した。弥六郎は2年後の永禄九年(1566)に、宇都宮 宗家や佐竹氏などの支援を受け、川崎城を攻め落として宗家の家督を奪還した。落城まで には百日を要したと伝わる。 天正十三年(1585)、薄葉ヶ原の戦いで宇都宮軍が那須資晴勢に敗れると、川崎城は 対那須家の最前線となった。この戦いには、那須氏のもとへ逃れた塩谷孝信も参加して 奮戦している。 塩谷氏は宇都宮氏の分家であり家臣であったが、天正十八年(1590)の小田原の役に 際して、重臣岡本正親を豊臣秀吉のもとに派遣している。役後は、宇都宮家の与力的な 立場となったものと推測される。 文禄四年(1595)、理由は不明だが義綱は突如として秀吉から改易を命じられた。一般 には、川崎城はこのときに廃城となったとみられている。一方で、天正十九年(1591)に 宇都宮国綱が領内の城割りを行ったともされ、川崎城には国綱側近の籠谷伊勢守が入れ られたとする史料もある。これが正しければ、義綱は改易以前から川崎城主ではなかった ことになる。 <手記> 川崎城は、内川の支流宮川沿いの細長い河岸の丘陵上に築かれています。丘陵の先端 には、朝業以前の源姓塩谷氏の居城跡と目されている堀江(山)城があります。川崎城跡 公園として整備されているので、比較的訪ねやすいのですが、それでも私が訪れた7月末 には雑草が結構伸びていて、三の丸以北は空が開けているものの、それがためにちょっと 踏み入れられない感じになってしまっています。 川崎城の一番の見どころは、何と言っても本丸を取り巻く豪壮な「一ノ堀」でしょう。別名 の蝸牛城のとおり、堀と二の丸が本丸をぐるっと囲っているのですが、そのようすがかなり しっかり見て取れ、往時の塩谷氏の勢力がうかがいしれます。二の丸と三の丸の間の堀 もなかなかのもので、規模の大きな曲輪と堀がカタツムリのように取り巻くことで、百日とも いわれる孝信の籠城を可能にしたのでしょう。ちなみに、城山の南側は西麓の沢が宮川 に流れる谷戸となっていますが、これはおそらく後世に開削されたもので、当時は南方の 峰と地続きだったものと思われます。 さて、朝業以前の源姓塩谷氏の居城については、堀江城のほかに御前原城とする説も あります。発掘調査の結果からは、御前原城の築城年代は1400年前後と推定されていま すが、私も御前原城居城説には懐疑的です。 御前原城一帯は開発には不向きな原野だったとされ、入植当初の塩谷氏が拠点とした とは思えません。逆に堀江城や川崎城の西には細く長く緩やかな谷戸があり、田を拓く のに適した地勢と思われます。私見としては、源姓塩谷氏は堀江城周辺を開拓していて、 ある程度発展したので、朝業は少し沢を遡って川崎城に移ったものと考えています。現に 川崎城跡の西側には館ノ川の字が残り、居館はこちらに置かれていたものと推測されて います。 |
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公園を登って最初に到着する南曲輪。 大きく見れば、二の丸から続く帯曲輪の一部。 |
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一ノ堀。 | |
同上。 | |
本丸のようす。 左手奥に土塁が見えます。 |
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土塁上の城址碑。 | |
本丸北東に付随する腰曲輪。 | |
本丸と二の丸の間の堀。 大きく見れば一ノ堀の延長といえます。 |
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同上。 | |
二の丸のようす。 |