勝呂館(すぐろ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 勝呂氏か
 遺構  : 土塁、堀跡か
 交通  : 東武東上線北坂戸駅徒歩20分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』によれば、開発領主勝呂氏の祖、須黒氏の居館とされる。
          勝呂氏は武蔵七党の1つ村山党庶流とされるが、詳しい系譜は不明である。
           勝呂氏の先祖が須黒氏とあるのは、『吾妻鏡』にみえる「須黒兵衛太郎」が、建保
          元年(1213)に勝呂神社本殿を再建した勝呂太郎恒高と同一とされることによるもの
          で、読みはいずれも「すぐろ」である。恒高は、承久三年(1221)の承久の乱で討ち
          死にしたとされる。


       <手記>
           『記稿』にしたがえば、現在の大智寺境内が勝呂氏初期の館跡ということになり
          ます。北東1km弱のところに、一般的に勝呂氏館跡とされる宗福寺があります。
           大智寺はかなり広大な境内を有していて、この敷地全体が館跡などということは
          とても考えられません。墓地を抜けて北西の裏手へ回ると、一部二重となった堀と
          土塁の痕跡のような箇所が認められます。ただ、これが館のものか寺のものかは
          判断が付きかねます。
           このお寺の一番の見どころは、境内に独立して建つまるでキリスト教会のような
          お堂です。ちょっと堂内を覗かせていただいたところ、色鮮やかなステンドグラスに
          袈裟を着たお坊さんのイコンがあるなど、宗教の垣根をだいぶ飛び越えていて新鮮
          に感じました。

           
 大智寺。
土塁状地形。 
 
 同上。
堀跡状地形。 
 同上。
おまけ:キリスト教会のようなお堂(本堂ではないようです)。 


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