勝呂氏館(すぐろし)
 別称  : 勝呂屋敷、勝呂豊前守屋敷
 分類  : 平城
 築城者: 勝呂氏
 遺構  : 堀跡か
 交通  : 東武東上線坂戸駅よりバス
       「石井郵便局前」バス停下車徒歩3分


       <沿革>
           在地領主勝呂氏の居館跡とみられている。勝呂氏は武蔵七党の1つ村山党の
          一族とされるが、詳しい系譜は定かでない。『吾妻鏡』に登場する須黒兵衛太郎
          は、建保元年(1213)に勝呂神社本殿を再建したとされる勝呂太郎恒高と同一
          人物とされるが、勝呂氏館がすでに築かれていたかは不明である。
           『新編武蔵国風土記稿』では、現在の大智寺境内を初期須黒氏の居館と比定
          し、後にこちらに移ったものと推測している。また、恒高に2人の弟があり、いずれ
          も子孫を残していることから、こちらの勝呂氏館を分家のものとする見方も示唆
          している。
           いずれにせよ、戦国時代には勝呂豊前守の居館であったとする点では、どの
          資料でも一致している。豊前守は永禄年間(1558〜70)ごろの人物で、北条氏
          に属し、その滅亡後は房総の里見氏を頼ったとされる。これが正しければ、館は
          天正十八年(1590)の小田原の役までは存続し、そして廃されたと考えられる。


       <手記>
           館跡とされる宗福寺は、南東に飯盛川の支脈が流れています。崖端とまでは
          いいませんが、水を背にした館だったものと思われます。ほとんど用水川のよう
          になっているその流れは、堀跡のようにも見えますが、遺構と呼ぶには余りにも
          さみしい感じです。
           境内には文和五年(1356)銘の巨大な板石塔婆があり、その説明板のなかで
          館や勝呂氏についても触れられています。他に碑などはありません。
           寺から生活道路を挟んだ北側に、かつては土塁の痕跡が残っていたそうです
          が、最近開発されてしまったようで、住宅が立ち並んでいます。

           
 宗福寺。
堀跡の痕跡ともいえる水流。 
 土塁があったあたりの現況。


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