水茎岡山城(すいけいおかやま) | |
別称 : 岡山城、九里城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 不詳 | |
遺構 : 曲輪跡、石塁、土塁、堀 | |
交通 : JR東海道本線近江八幡駅よりバス 「元水茎町」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 一説には南北朝時代に六角氏によって築かれたとされるが、詳細は不明である。明確に 史料に現れるのは、在地領主九里(くのり)氏の城としてである。 永正五年(1508)、将軍足利義澄が近江守護六角高頼を頼って逃れてくると、九里信隆が 保護して水茎岡山城へ入れた。この際、水茎岡山城は本格的に整備されたものと考えられ ている。 永正八年(1511)三月には、当城内で後に将軍となる亀王丸(義晴)が誕生した。しかし、 同年八月には義澄が城内で病死した。 永正十一年(1514)、高頼と守護代伊庭貞隆の関係が悪化し、伊庭氏被官であった信隆 は高頼に謀殺された。信隆の子浄椿は、貞隆の子貞説とともに抵抗を続けるが、同十七年 (1520)に高頼の子定頼に攻められ、水茎岡山城に籠城するも落城した。 大永五年(1525)、九里・伊庭両氏の残党が九里三重郎を擁して再び水茎岡山城に立て 籠もったが、黒橋の戦いで六角氏に敗れ滅亡した。これにより、水茎岡山城も廃城になった とされる。 <手記> 水茎岡山城は、琵琶湖にせり出した大小2つの独立丘上に築かれた城です。大きい方を 通称大山、大山の北東の小さい方を頭山と呼びます。城山の周囲は干拓により水田地帯と なっていますが、古くは水茎内湖に囲まれた、さながら湖に浮かぶ山のようであったという ことです。交通上はそれほどの要衝というわけではないと思われますが、水茎一帯は古来 和歌にも詠まれた景勝地でした。 頭山の遺構は、悪名高い水資源機構による造成工事でほぼ消滅してしまったそうです。 大山の山頂付近には遺構が良好に残存しているということですが、こちらはアクセスする 明確な道がありません。一応大山の北麓から山の中腹に建つ貯水場まで階段があります が、そこから先は藪をかき分け、道なき崖を這い登らねばならないということです。何度か 遭難しかけた経験のある私の直感から、潔く登頂を断念しました。将軍義晴が誕生し、かつ 将軍義澄が没したという稀にみる歴史をもつ城跡なのですから、もう少しきちんと整備して くれても良いだろうにと思いました。 |
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近江八幡城から水茎岡山城を望む(中央左)。 | |
北麓の登山口から城山を見上げる。 |