松山城(まつやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 横田氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR東北本線須賀川駅からバスに乗り、
      「あべ内科医院前」下車徒歩15分


       <沿革>
           天文六年(1537)の『塔寺八幡長帳』に、「松山御せいはい(成敗)」とあるのが初出と
          され、二階堂輝行(照行)の松山城を蘆名盛氏が攻めたものとされている。また、『仙道
          軍記』によると、永禄五年(1562)八月に田村氏が松山城を奪ったが、二階堂氏が城を
          包囲して兵糧攻めにしたため撤退したとされる。
           同九年二月には、蘆名氏が松山城を修築してそこから横田城を攻め、城主横田義信
          を捕えた。義信は輝行の弟であり、輝行の子盛義はこれにより嫡男を人質に差し出して
          蘆名氏に従属した。この経緯が正しければ、田村氏撤退後に松山城はいったん廃城と
          なっていたものと考えられる。
           その後の松山城については不明である。


       <手記>
           松山城跡の麓から中腹にかけては岩崎山史跡公園となっていて、駐車場も整備され
          ています。そこから第一展望台と呼ばれる小ピークまでは歩道も整っています。
           第一展望台には小祠があり、南端の出丸とみられているようです。そこから尾根伝い
          に遡上すれば主城域とのことなのですが、夏場とて藪が生い茂っており、途中に堀切状
          地形がみられる付近までで断念して引き返しました。冬場なら上まで頑張れたでしょう。
           松山城は眼下に横田城を見下ろす位置にあり、もともとは横田氏の詰城として築かれ
          た可能性も考えられるでしょう。永禄五〜九年の間に一時廃れていたのは、長沼城が
          二階堂氏方で健在だったからといったところでしょうか。

           
 松山城跡を望む。
岩崎山史跡公園第一展望台。 
出丸跡か。 
 主城域へ向かう尾根筋の堀切状地形。


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