横田館(よこた)
 別称  : 横田城
 分類  : 平城
 築城者: 横田氏
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR東北本線須賀川駅からバスに乗り、
      「横田」下車すぐ


       <沿革>
           二階堂家臣横田氏の居城である。横田氏はもともと藤姓とされるが、詳しい出自は
          不明である。16世紀前半ごろ、二階堂輝行(照行)の弟が横田氏の養子となり、横田
          左衛門尉義信と称したとされる。
           天文六年(1537)、横田館の北東にある松山城が蘆名盛氏に攻められたことが、
          『塔寺八幡長帳』に記されいてる。また、『仙道軍記』によると、永禄五年(1562)八月
          に田村氏が松山城を奪ったが、二階堂氏が兵糧攻めにしたため撤退したとされる。
          松山城と横田館は指呼の間であるが、横田館で戦闘があったのかは定かでない。
           同九年二月には盛氏が松山城を修築し、そこから横田館を攻めて義信を捕えた。
          輝行の子盛義は、これにより嫡男を人質に差し出して蘆名氏に従属した。
           天正十七年(1589)の須賀川城攻防戦に際して、義信の子とみられる横田治部は
          横田館に籠城した。横田館は伊達勢に攻め落とされたともいわれるが、須賀川城が
          落ちると伊達政宗に降伏して、所領の3分の1を安堵されたとされる。
           その後の横田館と横田氏については詳らかでない。


       <手記>
           横田集落の中心にある居宅の外縁に、上に図示したような形で土塁と堀跡とみら
          れる地形が認められます。そこから推定される範囲では、二階堂一門の城館として
          は狭いように思われるので、現在の集落全体を囲うような外郭が存在したとも考え
          られます。

           
 道路に面した土塁断面とみられる地形。
土塁及び堀跡とみられる地形を望む。 


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