山寺城(やまでら)
 別称  : 高館、山寺館
 分類  : 平山城
 築城者: 遠藤綱元
 遺構  : 削平地、門跡
 交通  : JR東北本線須賀川駅徒歩10分


       <沿革>
           『応仁武鑑』によると、二階堂氏の家老の1人である遠藤雅楽頭綱元によって築かれ、
          遠藤氏累代の居城となったとされる。ただし、綱元がいつごろの人物であるのかは定か
          でない。
           天正十七年(1589)六月の須賀川城攻防戦に際し、城主遠藤勝重は須賀川城に詰め
          ており、無主の城は伊達政宗に接収されてその本陣が置かれた。勝重は討ち死にし、
          二階堂氏も滅んだが、その後の山寺城については不明である。ちなみに、遠藤氏一族
          の遠藤壱岐守は、攻防戦における比類ない武勇を政宗に賞賛され、「殺すには惜しい」
          と戦後に召し抱えられた。


       <手記>
           須賀川駅西方の日枝神社境内が主郭とされています。その西側には、奈良時代から
          平安時代にかけて存在していたとされる米山寺の跡があり、山寺の地名もこの米山寺
          にちなんでいます。米山寺跡は公園化されていて、ここに駐車場も設けられています。
           日枝神社境内にはこれといった遺構はみられません。その背後の最高所には経塚が
          いくつもポコポコと残されていて、これまた城館跡らしさはありません。その西側脇に目を
          向けると、虎口状の開口部があり、その下には腰曲輪のような平場も認められます。
          『日本城郭大系』によれば、発掘調査により曲輪や門跡、土塁が検出されたとあります
          が、私が見たものと同一なのかどうかは分かりません。
           神社の門前から道路を挟んだ峰先側には二の郭があったということですが、こちらは
          住宅地として開発されています。門前の道路は堀切とも思えますが、断言はできません。
          また、さらに南方の須賀川桐陽高校付近は陣馬山と呼ばれ、政宗が実際に本陣を設置
          したのはこちらとみられます。たしかに日枝神社境内は狭いので、攻城軍の指揮所には
          不向きだったのでしょう。

           
 日枝神社門前。道路は堀切跡か。
主郭とされる日枝神社境内。 
 境内背後の経塚群。
経塚群西側の虎口状開口部。 
 その下の腰曲輪状の平場。
おまけ:米山寺跡。 


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