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駿木城(するぎ) |
| 別称 : なし | |
| 分類 : 山城 | |
| 築城者: 児島高治 | |
| 遺構 : 堀跡か | |
| 交通 : 中央自動車道松川ICから車で30分 | |
<沿革> 康永二/興国四年(1343)の末に宗良親王が大河原城主香坂高宗に迎えられると、 南朝の忠臣として知られる児島高徳の子・高治が駿木城を守ったと伝わる。水戸光圀が 編纂を命じた『大日本史』等によると、高徳は新田義貞の甥・脇屋義治と共に挙兵しよう としたが、発覚して大河原へ逃れたとされる。ただし、高徳の実在性や功績は『太平記』 以外ではみられないため、これを否定する向きも強い。また、一般にいわれる高徳の子 に、高治の名はみられない。 高徳父子が実在したとして、高治以降の児島氏および駿木城については不明である。 <手記> 駿木城は鹿塩市街地東方の河岸山上にあったとされています。麓からの比高は200m 以上ありますが、台地状の裾野となっているため、北東の集落からはフラットに入れます。 現在は「するぎ農園村」の駿木城跡公園となっていて、説明板や模擬櫓が建てられて います。ただし、城域の多くは崩落しているようで、一帯は水田化されていることもあり、 旧状を偲ぶのは容易ではありません。公園の手前には1段低まった幅広の田が延びて いて、堀跡を転用したようにも思われますが、確証はありません。説明板によれば、南東 に武家屋敷(根古屋か)や塩水を煮詰めたとされる「湯窪」があるとのことですが、どこの ことなのか分かりませんでした。 また、宗良親王の寓居した御所平へ通じる「見越道」が駿木城を経由していたそうです。 地図を見ると、御所平背後の標高1800m付近の鞍部を越路というようで、おそらくこれを 越えるルートと思います。とはいえ険しい山中をひたすら彷徨うような感じで、どこに道が 通っていたのか、地図上ではまったく見当が付きません。こんなところでレジスタンス活動 を続けるなんて、皇族といえども昔はパワフルだったんだなぁと感嘆します。 ちなみに、大島城跡南方の夜泣き松には高治にまつわる言い伝えがあります。いわく、 高治の娘・美祢姫は宗良親王との間に一女をもうけ、駿木城で育てていました。その子は 夜泣きがひどく姫はたいそう困っていましたが、河合の村人が近くの観音堂にお参りする と、観音菩薩が夢枕に立ち、「堂前の松の小枝を枕辺に供して霊夢に従えば、たちまちに 夜泣きが止むであろう」と継げたそうです。それ以来、この松は夜泣き封じの霊験あらたか として「夜泣き松」と呼ばれるようになったとか。ですが、今では子供がめっきり減ったため か、松は小枝が無造作にわしゃわしゃ伸び放題となっていました^^; |
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| 鹿塩市街部から駿木城跡を見上げる。 | |
| 駿木城跡公園を望む。 | |
| するぎ農園村の説明板。 | |
| 公園手前の1段低まった幅広の田地。 空堀跡か。 |
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| 城跡公園の模擬櫓。 | |
| 模擬櫓からの眺望。 | |
| 模擬櫓から付け根側を望む。 | |
| 公園南東の根古屋跡か。 | |