薄倉城(すすきくら) | |
別称 : 中城、四万の砦 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 須川地衆か | |
遺構 : 曲輪跡、堀、土塁、土橋 | |
交通 : JR上越線後閑駅また上越新幹線上毛高原駅よりバス 「湯宿温泉」バス停下車徒歩30分 |
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<沿革> 『須川記』によれば、天正十年(1582)三月に吾妻郡中山の中山九兵衛が薄倉城 へ攻め寄せたとされる。籠城していた須川地衆は城外で迎え撃ったが、利あらずと して城内へ退いた。このとき、須川地衆は泰寧寺を狼煙代わりに焼いて、沼田城へ 危急を知らせたとされる。当時、沼田城は真田氏の領有であり、ちょうど時期が織田 信長の武田氏攻めの真っ最中であることから、これを好機とみた北条氏が薄倉城を 抜いて、沼田へ圧力をかけようと図ったものと推測される。 今のところ、この他に薄倉城について書かれた資料は無いものと思われる。 <手記> 薄倉城は、赤谷側の2本の支脈に挟まれた細長い丘陵を利用した城です。別称に 中城のほか「四方の砦(『日本城郭大系』)」ないし「四万の砦(『中世城館調査報告 書集成』)」というものがありますが、どちらかが字を誤っているものと思われます。 上州の城館については、中世城郭ファンであれば多かれ少なかれ先人山崎一氏 の描かれた縄張り図を参考にしているものと思いますが、「儀一の城館旅」管理人 の儀一さんが、山崎氏の図には掲載されていない遺構を発見なされたとのことで、 「城跡ほっつき歩記」管理人の和平さんとともに、案内していただくことになりました。 ただでさえ細長い薄倉城は、さらに小さな沢谷戸地形を挟んで南北2つの尾根に 分けられます。便宜上北側のものを北城、南側を南城と呼ぶことにしますが、山崎 氏の図ではいずれも上の地図の緑丸の左側半分以内に収まっているように描かれ ています。 ところが、儀一さんのご指摘によれば、城域は上の地図の「茅原」の字のあたり まで延びているとのことで、訪れてみて私もそのように納得しました。しかも、主郭は この東端にこそ置かれていたものと思われます。山崎氏の縄張り図をみてみると、 実際に踏査されて描かれた図よりも、使っている地形図の縮尺がかなり大きいよう にみえます。このため、中ほどまで来たところで東端まで行きついてしまったように 錯覚してしまったのかなと拝察されます(確認は不可能ですが)。 さて、北城にかんしては、山崎氏の縄張り図にある範囲の遺構はやや不明瞭と いえます。その先のとにかく細長い尾根を進んでいくと、間隔をあけて3条の堀切が あります。とくに東側2条の堀切は、規模も大きく残存状況も良好で見応えがあり ます。城域が東側へ続いていることを示す、もっとも分かりやすい証拠ともいえます。 途中の堀切間については、削平がされているともいないともいえず、はたして曲輪 として形成されていたかは分かりません。 主郭は大きく3段に分かれており、中段には櫓台状の土塁があります。主郭の 北側は一段下がってやや広い腰曲輪となっており、兵の駐屯スペースだったもの と思われます。何より重要なのは、主郭の東麓を旧三国街道が走っているという ことで、東端を主郭とすることではじめてこの城の第一目的が街道監視にあること がいえると思われます。 南城は、北城に比べて幅があり、2条の空堀によって3つ曲輪に分かれています。 山崎氏の縄張り図では南城の先端の曲輪を本丸としています。現在、大部分が 鬱蒼とした藪となっており、西側のものと思われる空堀と土橋跡は確認できたもの の、その他の部分はほとんど踏査不能になっています。 薄倉城は、なぜこれほど東西に細長く、さらに主郭から離れた西の根元に、峰を またいで南城が設けられているのか、少々疑問といえます。私見として、もともと 薄倉城は須川地衆が築いたものであったが、その規模は東端の主郭周辺にとど まっており、後に長尾景虎(上杉謙信)が関東へ進出するようになってから、同氏 によって拡張されたのではないかと考えています。その目的は、すぐ北の宮野城 と同じく、三国峠を越えた越後兵の駐屯です。そう考えれば、同じ城域とはいえ 主郭と妙に離れた西側に広いスペースが確保されていることにも、説得力をもた せることができるように思われます。 史料には乏しいものの、興味深い機能と縄張りを備えた城といえ、熱く紹介して 下さった儀一さんにはたいへんありがたく思っております。 |
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薄倉城址を望む。 | |
主郭上段から切岸越しに中段を望む。 | |
主郭中段の櫓台状の土塁。 | |
主郭下段先端付近のようす。 | |
主郭北側の腰曲輪を望む。 | |
主郭背後の堀切。 | |
主郭から2条目の堀切跡。 | |
土塁跡か。 | |
主郭から3条目の堀切跡。 | |
南城の空堀。 | |
同じく土橋跡。 |