諏訪原城(すわはら)
 別称  : 牧野城、牧野原城、
 分類  : 平城
 築城者: 武田勝頼
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、馬出、井戸
 交通  : JR東海道本線金谷駅徒歩20分


       <沿革>
           天正元年(1573)、武田勝頼によって高天神城攻略の橋頭堡として築かれたとされて
          いるが、一次資料等による裏付けはなされていない。『甲陽軍鑑』によれば、馬場信春
          が普請奉行で、勝頼の従弟武田信豊がその補佐にあたったとされる。
           翌天正二年(1574)には高天神城攻略に成功したが、同三年(1575)の長篠の戦い
          で武田軍が織田・徳川連合軍に大敗すると、逆に両城は徳川勢の攻勢に晒されるよう
          になった。同年中に諏訪原城は攻め落とされ、城主今福浄閑斎友清は討ち死にしたと
          いわれる。ただし、『甲陽軍鑑』によれば浄閑斎(長閑斎)は駿河久野城主を務めていた
          とされ、また没年についても同九年(1581)とする説もある。『寛政重修諸家譜』では、
          諏訪原城主を室賀・小泉の両氏としており、諏訪原落城については不明な点も多い。
           徳川氏は、武田方に踏みとどまっていた高天神城を封鎖するための拠点として諏訪
          原城を用い、改修を加えた。間もなく城名も牧野城と改めたとされ、『家忠日記』には
          「牧野城」ないし「牧野原城」として登場する。城番には松平家忠のほか、西郷家員と
          戸田康長が交代制で任じられ、また家忠と並んで牧野康成も入れられた。
           高天神城は天正九年(1581)に至ってようやく落城した。翌十年(1582)に武田氏が
          滅ぶと、牧野城は存在意義を喪失した。その後も東海道筋の城として存続はしていた
          が、同十八年(1590)に徳川家康が関東移封となるに及んで廃城となった。


       <手記>
           諏訪原城といえば、中世城郭ファン垂涎の城跡として知られています。地続き側の
          すべての出入り口に丸馬出が設けられ、遺構の残存状況もさることながら、武田氏の
          築城術をとっぷりと体感できるというところが魅力とされているようです。二曲輪周辺に
          4〜6か所残る馬出はたしかにいずれも良好な姿で残っていて、とくに諏訪神社のある
          大手馬出と、そのひとつ北の中馬出と呼ばれる箇所には見ごたえのある三日月堀が
          巡っています。4〜6としたのは、現地説明板では二曲輪東馬出と同東内馬出と呼ばれ
          ている部分については、馬出というよりも武者溜まりのような感じに見受けられたから
          です。
           期待を裏切らない素晴らしい城跡ではありましたが、期待し過ぎていた分残念だった
          のは、藪化がだいぶ進行してしまっていた点です。広大な二曲輪内部は歩き回ること
          もできず、せっかくの深い空堀も藪によって底が見えなくなっていました。私が訪れた
          ときからほどなくして最も北の馬出の城門が復興されたとのことですが、せっかく予算
          をかけるなら、ぽつんと1つだけ門を建てるよりも、全体を見やすく整備してくれた方が
          見学者の満足にはつながるのではないかと感じました。
           個人的に諏訪原城が面白いなと思うのは、その立地です。東海道が峠のように細く
          くびれた牧ノ原台地の頸部を越える地点に築かれていますが、西の徳川氏に備える
          のであれば、台地の西側崖端に築いた方が防衛上は有利なはずです。ですが、城は
          東に崖を抱えて築かれていて、いわゆる後堅固の城となっています。また、縄張りに
          ついても馬出などの細かいパーツを除けば、大まかに本曲輪とその外側を囲う二曲輪
          というシンプルな構造となっています。このことは、諏訪原城がつとめて駐屯・中継の
          拠点であったことを示していると考えています。
           徳川氏による改名については、中国古代の殷周革命における牧野(ぼくや)の戦い
          にあやかったものとする説が後世の文献にみられるそうですが、これは余りにもとって
          つけた感が否めません。諏訪原城のすぐ近くを通る東海道線のトンネル名が「牧の原
          トンネル」という通り、牧野原(牧之原)が省略されて牧野城となったものとするのが、
          妥当なように思われます。また改名の理由としては、武田氏が戦に際して篤く信仰し、
          勝頼が一時名跡を継いでいた「諏訪」の字面を嫌ったためではないかと推測されます。
           現在目にしている諏訪原城址については、『家忠日記』の記述や発掘調査の結果、
          徳川氏時代にかなりの改修が加えられていることが明らかとなっています。中井均氏
          は、『静岡の山城 ベスト50を歩く』のなかで、武田流築城術の粋として語られてきた
          丸馬出についても徳川氏の造作なのではないかとする提起を載せていますが、確証は
          得られていません。ただ、明らかに後で付け加えられたとみられる大手馬出の外側の
          大手曲輪と呼ばれる方形区画については、徳川時代の拡張部分と考えられています。
          それに加えて、武田氏時代には余り考慮する必要はなかったはずの東側斜面の造作
          についても、おそらく徳川氏の改修によるものと思われます。
           国指定史跡にして続日本百名城にも選ばれた城跡ですから、遺跡として美しく保存・
          観賞できるよう中長期的視野での整備をお願いしたいところです。

          [追記]
           2023年に再び訪城する機会がありました。北馬出に不思議な模擬門や塀のような
          ものが建造され、各堀跡が見やすくなり、また駐車場脇に立派なビジターセンターが
          完成していました。小さな子供を連れた家族連れも多く見られ、未来の城跡ファンが
          こうして育ってくれればいいな〜と温かい気持ちになります。
           というわけで、下の写真には新旧のものが混在しているのでご了承ください。


           
 大手南外堀。
大手北外堀。 
 大手馬出と空堀。
中馬出全景。 
 北馬出の模擬門と塀のようなもの。
二曲輪堀(外堀)。 
 同上。
南馬出。 
 東馬出。
大手馬出に鎮座する諏訪神社と城址碑。 
 二曲輪東内馬出。どちらかというと武者隠しか。
二曲輪のようす。 
 二曲輪のようす。
本丸堀(内堀)。 
 同上。
カンカン井戸。 
 水の手曲輪へ向かう本丸堀の谷筋。
本曲輪の説明板。 
 本曲輪の中心部付近のようす。
本曲輪からの眺望。 
 搦手口。
搦手口下の堀切と土橋。 
 本丸前方下の帯曲輪。
本丸下の横堀。 


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